きまずいふたり・第5話<完結>

「どうしてそんな態度なんだか理解不能なんですよ」
 横でぶつぶつと呟いている低い声に、御幸はもう相槌を打つ気も起きなくなっていた。
「あの人何であんなに頑固なんだ、もうちょっとぼやーっとしてると思ったのに、全然、一歩も譲ろうとしないで」
 目の前のジョッキが空になっている。御幸は追加でもう一杯頼もうとしてから、思い直して、通りがかった店員に烏龍茶を頼んだ。ビールはまだ一杯目で、到底御幸の酔うような酒量ではなかったが、美味い酒とはさっぱり思えなかったので、無理して飲むこともないだろう。
 いっそ酔わずにはやってられない気分にもなっていたが。
「俺は秋口のことが好きだ、でも秋口とは一緒にいたくない、ですよ。もうわけわかんねえっつーの」
 ご丁寧に声色まで使って言った台詞は、すでに四回目だと言うことに、御幸の隣に座る後輩は気づく様子もない。
「聞いてますか御幸さん」
「聞いてる、聞いてる」
 適当な調子で、御幸は秋口に頷きを返した。
 会社最寄り駅近くの居酒屋。やっと今日の残業を終えて帰ろうとした御幸を捕まえたのは、秋口の方だった。相談があるのでちょっとつき合って欲しいと言われ、何となく気が乗らなくて断ろうとしたのに、強引に店まで連れてこられてしまった。カウンタ席に案内されたのがまだしも運がよかった。これで秋口と差し向かいなんてますます気が進まない。
「あれ、空だ。すみません、生もう一杯」
 秋口のペースは早く、今の注文ですでに四杯目だ。秋口だって決して酒に弱いタイプではなかったが、今日はやたら回りが早いようだった。目は据わって、くだを巻く酔っぱらいそのもの。
 普段だったらきっと周りの女性客がひっきりなしに近づいてきただろうが、秋口が隠しようもなく不機嫌なオーラをまき散らしているので誰も近づくことができず、これも御幸には不幸中の幸いだった。
「おまえ、そろそろやめとけよ。っていうか、相手が違うんじゃないのか」
 御幸のこの台詞もすでに三回目だ。だらしなく片肘でカウンタにもたれていた秋口が、憮然と隣の御幸を睨んだ。
「だって、佐山さんは俺といたくないっていうんだから仕方ないでしょ。ほんと、あの人は何だってあんなに頑固なんだ。もうちょっと可愛いげのある人かと思ってたのに……」
 そしてまた元の会話にループする。御幸はこっそり嘆息した。
(俺は、何をやっているんだろうか)
 軽く途方に暮れる。どうして自分が、佐山翼の親友を自認するこの自分が、よりによって秋口なんかとふたりきりで酒を飲まなくてはならないのか。どう考えても理不尽な状況だった。
(佐山の愚痴を聞くのならともかく……)
 偶然なのか必然なのか、御幸にとってはまったく心の弾まない四人で食事をしたのは、一週間ほど前。
 佐山は彼らしくなく不機嫌さを隠そうともせず黙り込んでいたが、それを思い出せたのはその数日後になってからだというくらい、御幸は御幸で茫然としていた。何かと考えるのが嫌になって思考を放棄していたから、気づいたら、もう佐山と別れて自宅のベッドの上だったのだ。
(だから余計に、秋口なんかと顔を合わせたくなかったっていうのに)
 ほんの一杯つき合ってくれればいいからという話だったのに、秋口はすでにこの為体だ。相談というより、単に誰かに愚痴を言いたかっただけらしい。その辺りがまったく秋口らしいと、御幸は怒りも沸いてこないほどだった。状況を改善するために、佐山と親しい自分に間を取り持つよう頼むわけでもない(もっとも、以前それを頼まれた時御幸はきっぱり断ったし、今だって、それに頷くつもりなんてさらさらなかったが)。ただ、佐山との――男との恋愛感情の縺れなんてことをおいそれと他の人間に話すわけにもいかず、事情を知っているのは御幸だけだったから、それを相手に選んだだけなのだ。
「ちょっとつっつきゃ泣き出しそうなメガネかと思ったら、かたくなにもほどがある。もう詐欺ですよ、あれは」
「あのなあ」
 この酔っぱらいに何を言っても無駄だとわかりつつ、御幸は口を出さずにはいられなくなってしまった。秋口の愚痴ループは、回を増すごとにひどい言いようになっている。
「まるで自分が一方的な被害者みたいな言い種はやめろよな。そもそも最初から最後まで、おまえが余計なことしないで必要なことだけ言ってれば、今みたいにこじれる要素なんて全然なかったんだぞ」
 この言い方も、『これはこれでフェアではないな』と思いつつ、御幸は秋口を見遣った。多分、佐山の性格上、秋口が『余計なこと』をしなければ何も始まらず、佐山の恋は片道通行のままで終わっただろう。
(その方が今の百倍ましだとしても)
 責められて、秋口はさすがに居心地の悪そうになっている。どうやら酔っぱらいにも罪悪感はあるらしい。
「会社の中で他の女といちゃついて見せて、それで佐山が冷たいって言われるんじゃ、あいつだって立場がない」
「……別に、いちゃついてませんよ」
「相変わらず相手を取っ替え引っ替えして、社外でもどこそこでだれそれとおまえがいるところを見たって噂も流れてるのに、じゃあいちゃいちゃせずに何してたっていうんだ」
「……だから……」
 ぼそぼそと、秋口の口調は歯切れの悪いものになる。
「取っ替え引っ替えに、まあなるって言われればなるのかもしれないけど、同じ相手とは二度と会ってはいないし」
「後腐れない大人のおつきあいか? それがどういう言い訳になると思ってるんだよ」
「後腐れを作るわけにいかないじゃないですか。でもこっちの心持ちが変わったって、その意思表示をしないことには結局同じことの繰り返しだから」
「おまえの心持ち?」
「……こっちから別の人を誘う気はないし、誘われてももう応じない、っていう」
「……」
 別の人――つまり、
(佐山以外の人を?)
 少し考えてから、言いづらそうにしている秋口の言わんとすることを察し、御幸は驚いて目を瞠った。
「じゃあもしかして秋口、おまえ自分にちょっかいかけようとしてくる相手、ひとりひとりに『もうそういう気はない』って言って回ってるのか?」
 秋口は御幸から目を逸らしたまま、やけくそのように喉を鳴らしてビールを飲んでいる。
「バ……ッ、おまえ、何でそういうことを俺になんかぺろっと話して、佐山本人に言わないんだよ!」
「……そんなの、恥ずかしいからに決まってるじゃないですか」
 御幸の視線からさらに逃れるように、秋口は片手で顔を覆っている。顔がやたら赤いのは、酒のせいか、羞恥のせいか。多分その両方。
「佐山さんは、どうせ俺がそんなことしたって喜ばないんだ。そりゃ、最初は佐山さんのためにそうしようって思ってたけど、事情を話しはぐってるうちに、向こうが会うのやめるって言い出したんだから。無理してまで俺との時間は作りたくないとか、そういう……そんなこと言われたら、しつこい女相手に必死になって言い訳してる自分が馬鹿みたいじゃないか。佐山さんは俺と他の女が会ってても気にしないって前から言ってるのに、俺だけ空回ってるみたいで」
 言葉もなく、御幸はしばらくまじまじと秋口の顔を眺めた。
 これが、営業部――社内でも名うての遊び人なんて言われている人間だということに、驚愕してしまう。
「俺だけ必死なんですよ。佐山さんは、俺と会えなくなったって、きっと平気な顔してるんだ。俺が慣れないことやって、慣れない修羅場で情けない気持ちになったって、気にもしないで」
「……おまえ、結局世の中は全部自分の思った通りになると思ってるだろ」
 目の前にいるのはただの駄々っ子だ。佐山はよくこれにつき合っていたものだと、御幸はいっそ感動を覚えたほどだった。
「自分本位で考えるから、自分だけ損してるとか、向こうは何もしてくれないとか、相手に文句ばっかり出るんだ。どうして腹割って話してわかりあおうって発想にならないんだよ、自分の思ったとおりにいかないのがひどいって恨み言言う前に、ちょっとは他人の気持ちを考える努力をしろよ」
「してますよ」
 四杯目のジョッキを煽ってから、秋口は完全な不貞腐れ顔で息を吐き出す。
「佐山さんの気持ちなら、ずっと考えてますよ。だからちゃんと、他の相手とはけじめつけようってと思って、でも、佐山さんは」
「どうしておまえが勝手にやってること、佐山が何も言われないまま汲んでしかるべきだなんて思いこめるんだ? そんなもの、秋口が節操なくあちこちの女に手を出すようなことがなければ、初めから佐山が傷ついたり諦めたりしなくていい部分だったんだぞ」
「……」
「おまえがやってること自体が駄目だとは言わないさ、でも、やり方はおかしいだろ。佐山の不安を取り除くためにしてる行動なはずなのに、ちゃんと説明しないならまるっきり逆効果なんだぞ」
「説明すらさせてくれないんだから仕方ないじゃないですか。話そう話そうってタイミング計ってるうちに距離置きましょう宣言ですよ、これ以上俺にどうしろって」
「好きな相手と一緒にいられないことを辛いと思うなら、佐山だって今どれくらい辛いのかをまず理解しろよ」
「……会いたくないって言ってるのはあっちなんだ」
 低い声で、ビールジョッキを握り締めて、秋口が言う。
「だったら、佐山さんが俺のことをそんなに好きじゃないってだけの話なんだろ」
 秋口の台詞が終わらないうちに、御幸はとうとう腹に据えかねて、乱暴に財布から紙幣を取り出すともうカウンタに突っ伏しかけている秋口の横にそれを叩きつけた。怒りに任せて立ち上がる。
「本当に、救いようのない馬鹿だな。おまえなんてさっさと佐山に捨てられちまえ」
 滅多になく語調を荒らげてしまった御幸は御幸で、それなりに酔っていたのかもしれない。
 泥酔している秋口を置いて、御幸はそのまま店を出た。あの様子ではまともに家に帰り着けるかあやしかったが、もとより御幸の知ったこっちゃない。
 自分はさっさと家に戻って、シャワーを浴びて寝てしまおうと、駅に向けて歩き出した御幸のスーツのポケットで、携帯電話の着信音が鳴り出した。
 取り出してみると、液晶画面には『縞』の表示。入れたくもなかったのに、登録しろしろと目の前で急かされてアドレス帳に入れてしまった番号だ。その名前を見た瞬間、御幸は怒りで我を忘れた。
「あんたのところの馬鹿ガキをどうにかしろよ!」
 そして通話ボタンを押すなり、受話器に向かって吐き捨てる。
『んん? あれ、御幸さんの携帯? ですよね?』
 回線の向こうでは、面喰らったような縞の声。それが初めて聞くような彼の素の声音だったから、御幸もハッとして我に返った。
 大きく息をついて、片手で髪を掻き上げる。
「……すみません、御幸です」
『あ、よかった、イタ電かと思った』
 何でそっちからかけておいて悪戯電話に繋がるのだ、と思いつつ、悪態をつける立場でもなかったので、御幸は小さく乾いた笑いを洩らしただけだった。
「失礼しました、今通りすがりにタチの悪い子供に因縁つけられて」
『大丈夫です? 一緒に誰かいますか』
「ひとりですけど、まあ、何とか」
『そう? 最近変なの多いし、やばそうなの相手だったら全力で人の多い方に逃げてくださいね』
 親身に心配してくれている様子だからと言って、ほだされる義理もない。御幸は曖昧に口の中で相槌を打つに留めた。
「それより、何かご用ですか」
『ああ、うん、そうそう。ってことは御幸ちゃん外なんだよね』
 いきなり口調がくだけてしまった。御幸は軽く眉根を寄せる。
『ちょうどいいや、俺も出先なんだけど、これから飲みに行かない? ふたりで』
「……」
 御幸は鞄を持った手の腕時計をたしかめた。残業の上秋口につき合わされたから、もう日付が変わりかける時間だ。
(サラリーマン舐めてんのか?)
 今日は平日だ。当然明日も仕事がある。
「相手が違うんじゃないんですか」
 今までさんざん佐山に懐いておいて、今自分へ気軽に声を掛けてくる縞が、御幸にはとことん気に喰わなかった。
 だから故意に苦笑を含んだ声音で答えると、縞は電話の向こうで、おもしろそうに笑い声を洩らしたようだった。
『あれ、違ってていいの?』
 御幸は黙って電話を切った。ついでに電源も落としてしまう。
(この血族は話にならない)
 二度とあいつらには関わるまい、と心に決めて、御幸は駅までの道のりを足早に進んだ。

きまずいふたり

Posted by eleki