嵯峨景子「氷室冴子とその時代」

読んでから結構経ってしまった。
発売当初は取り寄せるのに若干苦労したんですが、今は重版もかかって、普通にAmazonなどでも買えるっぽい。

著者も冒頭で書いていたけれど、ご本人の氷室冴子体験ではなく、冷静な文章で作家氷室冴子について情報を綴っているので、とても読みやすかったです。

(一瞬だけ感情的に見える文章になる部分があって、そこはものすごく共感できて、そういうところも、よかった。)

私は落窪物語以外の単行本はエッセイ含め全部読んでいたけど、雑誌インタビューなんかは取りこぼしてしまっているし、学生時代に書かれた文章などは目にしたことがなかったので、今になって初めて触れられる氷室さんの文章がまだあったことが、本当に嬉しい。

私が熱心な少女小説の読者になったのは、氷室さんの「時代」より少し後で、だから当時の感触を知れるのは楽しかったし、でも後述する理由でとても辛かった。

そして著者の方のnoteで書かれていた事実があまりに衝撃的で、「もう氷室さんの未知の文章とは巡り会えないのだ」と覚悟を決めていたつもりだったのに、若干貧血状態に陥るほどになってしまった…。

ところが氷室さんの遺品にはそうしたデータ類は一切なく、未発表原稿や草稿類も残されていないとのことでした。ご自身のご病気が発覚した以降のある時点でデータを消去したのではないでしょうか。

 

さらなる追い打ち

潔いにもほどがある。
先にnoteとTwitterの文章を目にして、「ええ…」とよろめきながら「氷室冴子とその時代」を読み、もう一度「データをすべて消去した」という事実について考えて、どうしようもない気分になってしまった。
まだうまく言語化できん。

なので以下は、自分メモというか、気持ちを整理するとっかかりのために書く文章です。自分語りです。

本の感想を求めてここに辿り着いた人は、以下は読まなくて大丈夫です。

まとめる意思はなく、ただ垂れ流す…。

※上にも書いたけど、私自身が『少女小説』隆興の時期よりちょっとズレた時代に『少女小説』を読んでいたうえに、手に取った作品が偏ったラインナップだったので、当時の『少女小説』を取り巻くものがが実際のところどういう空気だったか、うまく読み解けているかはわかりません。が、とりあえず、少女小説を読んでいると、「そんなくだらないものは読まないで、もっと将来のためになる本を読め」と、学校の男性教師に堂々と馬鹿にされるような体験をしています。おそろしい時代だったな…。


「氷室冴子とその時代」を読んで、自分がとんでもない勘違いをしていたことに気づいた。

私は長らく、「氷室さんは『少女小説』というものにこだわり、『少女小説家』が軽んじられる風潮を嫌がって、あくまで『少女小説家』という立場で戦おうとした人」という認識でいた。

けど、実はまったく意味が違った。
まったく逆の意味だった。
私が思っていた『少女小説』と、氷室さんが考えるところの『少女小説』って、全然別物だったのだ。
別物という以上の意味があることに気づいた瞬間は、文字通り血の気が引いて、しばらくページを読み進められなんだ。

私はものすごく『少女小説』が好きです。
それまで学校の図書室で借りた児童文学とか、古典文学を子供向けに書き直した全集、家にあったドメスティック文学やプロレタリア文学なんかを読んでいたのが、小学生の時に、読者だった母から借りた氷室冴子・新井素子両氏のコバルト作品に触れて、それまでとは違う読書体験に脳みそがぷゎ~となって、未だにぷぁ~とし続けています。

『少女小説』というものに私自身がこだわりがあって、でも『少女小説』という言葉がずいぶんと変わった意味で用いられるようになり、気づけば少女小説と呼ばれるカテゴリの中に「現代の日本が舞台の、日常を描いた青春小説」というものがすっかり減っていって、ひそかに寂しがっています。

(私は読書自体が大好きで、どんなジャンルもカテゴリも楽しく読むので(作品個々の趣味に合う合わないはあたりまえのようにあるとしても)、だからこそ、「日常もの」の選択肢が『少女小説』のカテゴリから減ってしまったのを寂しがってしまうだけの話で、今の少女小説だったり乙女小説も滅茶苦茶楽しく読んでいますので、そこだけは誤解なきようお願いします、念為)(ジャパネスクや銀金が現代日常ものではないので、日常ものだけ求めているわけではないのはわかってもらえると思うけど)(だから蛇足かもしらんけど、自分自身がいろいろショックを受けたあとなので、敏感になっている気がする…)

自分も仕事で小説を書くようになって、そのうちにいろいろ考えることができてきて、ものすごく悩んで、辛かった時期がありました。
何がどう辛かったかはうまく説明できないし、やっぱり誤解されたら嫌なので、具体的には全然書けませんが。

氷室さんだって『少女小説』にこだわって、『少女小説』という場で戦っていたんだ、と思うことで乗り越えられることがあった。
…が、違ったんです。違ったんですよ。
どっちかっていうと、氷室さんが離れた『少女小説』の渦中に、自分がいたんですよ。

もうね、もう…言葉にならん…。

ひさびさに、「打ち拉がれる」という表現がぴったりな感じで頽れました。

私が氷室作品に触れたのは、『少女小説』を熱心に読むようになったのは、『少女小説』という呼称が氷室さんの意に沿わない方へ向かってずいぶんあとだったのだと、「氷室冴子とその時代」を読んで知った。

上に書いた「氷室さんは『少女小説』というものにこだわり、『少女小説家』が軽んじられる風潮を嫌がって、あくまで『少女小説家』という立場で戦おうとした人 」という認識は、たしか母から聞いたので、母は、もしかしたら氷室さんがまだ『少女小説家』と呼ばれることに肯定的だった時代にお書きになった文章を読んだのかもしれません。

考えてみれば、私が自分のお小遣いで氷室作品を買うようになった頃には、とっくに氷室さんは『少女小説』以外の場所に活動を拡げていたのに、どうして『少女小説にこだわっている』と思い込み続けられていたんだろうなあ。

氷室さんが表舞台に出なくなってから、いろんな憶測を人から聞くことがあって、まことしやかに囁かれていたうちのひとつが要約すれば「少女小説が嫌いになったから(もうちょっと色々ひどい内容だった)」というもので、私は「そんなはずはない、氷室さんは少女小説が好きなんだ」と噂話をする人に呆れていたりしていたんですが、その人たちはその人たちで、『少女小説』が氷室さんの思うものから外れていった頃の文章を目にしていたんだろうなと、今になって思う…。

本当のところは当然ながら本人やごくごく親しい人にしかわからないだろうけど。

何だかものすごく悲しいというか、取り返しのつかないことをしてしまったような、後悔のようなものに打ちのめされながら、「氷室冴子とその時代」を読み終えたのでした。

そしてすべての原稿を処分したことについて思いを馳せてしまって、何もかも憶測でしかないんだけど、私はすごく、駄目な読者だったんだなあと思いしばらく立ち直れそうもないのだ…。


ここまでが、読了直後に書き殴った文章で、今はちょっとというか、だいぶ、落ち着いてます。

いやショックのあまり、氷室さんを知らない同居人に「聞いてくれ…」と長々くだを撒いたり、膝を抱えて部屋の隅で呻いたり、しばらくグダグダやってたんですが。

ものすごく馬鹿馬鹿しい、単純な事実に気づいて、立ち直った。
何が原因で元気を出したのかというのは、ちょっと書けないんですが、今は妙ちくりんな落ち込み方はしていません。

やっぱり私は氷室冴子が生み出した作品が大好きで、作家自身も尊敬していて、大事な存在として、一生生きていくんだろうなという再確認をした。

そしてやっぱり、『少女小説』が大好きだなあと思う。

割と定期的に氷室作品を読み返しているんですが、今後も楽しくそういう読書ができる気分になって、よかったよー。

氷室さんのおかげで吉屋信子に出会えたのも、僥倖であった。