映画『三島由紀夫vs東大全共闘50年目の真実』

春先に上映を知って、行こうと思っているうちにコロナで映画館が当分閉鎖になってしまって落胆していたんだけど、自粛解禁後にラインナップに復活していたので嬉々として観に行った。

三島由紀夫、全共闘(しかも東大)と来たら観に行かない理由はなく。

とてもおもしろかった…とてもとても、とてつもなくおもしろかった…。

『言葉の銃で撃ち合い、論理の剣で斬り合う死闘』という惹句でしたが、まさしく。
鋭い緊張感の中で繰り広げられる三島劇場、それに反撃しようとしながらもあっという間に心酔していく学生たちがおもしろい。
主催の学生が、三島を敵として自陣に招いたのに、演説を聴いてうっかり「三島先生」と敬称をつけてしまうところとか最高でした。

論客として名高い学生(芥正彦)が三島に突っかかって、多分想定していたレスポンスと方向性が違うので勝ち逃げのふりで単に逃げ出したり(というように見えた、私には)、なのに本人は「三島をやり込めた」もしくは「俺はあの三島と同じ時間を共有しえた」という誇りを胸に抱いてその後五十年三島由紀夫という存在を引き摺り続けていたり。
芥氏の現在のインタビューを見て、ああ、この人は永遠に「青年」のまま生き続けるつもりなんだなあ、と眩しくなった…。

芥氏の論法だと、一瞬が永遠になり得るので、バリケードを作った瞬間に勝利宣言をしてしまえば、たとえその直後にバリケードを破られても、その後どれだけ他者に踏みしだかれても、全共闘側が『勝利した』という事実が(芥氏の中だけで)出来上がってしまうことになり、あまりに空虚ではあるまいか。
理論上ではそうなるとしても、現実は何も変わらないことについては、どうでもいいものなのだろうか。

芥氏が哲学的な持論を展開する最中、ちょっと正確なセリフはうろ覚えですが「言葉遊びはもういい、俺は三島を殴れるというからここに来たんだ!」というようなことを叫んだ学生が一番好きでした。ちょうど私が芥氏の観念的な論理法に苛々していたので爽快だったよ。

芥氏にとっては「退屈だから帰る」というのが本人にとっての勝利宣言で、でも傍から見ればクソリプつけて鍵かけ逃亡にしか見えなくて、結構残念だった。もっと時間をかけて殴り合ってほしかった。
本人も敗北はわかっていて、だからこそ五十年間引きずり続けているのではないだろうかとも邪推する。

「三島由紀夫」に人生を狂わされた男たちのドキュメンタリー、と言ってしまうひどく陳腐で軽佻浮薄になってしまうかもしれませんが、そう表現するしかない作品でした。

私は生きて動いて喋る三島由紀夫をじっくり見るのが始めてだったので、何となく抱いていたイメージとぴったり嵌まるところと、想定外だったところがあって、それも大変に興味深いものでした。
強烈な自己愛と劣等感と繊細さを持つ人、という印象でそれは思っていたとおりだったんだけど、想像以上に穏やかで優しくて、そしてとてつもなく化け物染みて頭がよかった…知的である、というのは当然知っていたけど、私が想像し得る範疇ではなかった。

それは東大生も一緒で、今あの熱量、あの知識と意識をもって誰かを言葉で殴りに行こうという大学生っているのかなあと考える。個人としては存在するかもしれないけど、集団としては存在できないだろうなあ、とか。

あの時代、あの場所、あの人々の集まりがあってこそ生まれた論戦だと考えたら、どうして自分があの時代に生まれなかったのかと転げ回るほど悔しい。
まあこの時期に生まれていたとしても、私は右にも左にもいけず家で「またやってる、あいつら暇だよな」と漫画読んで終わった気しかしないが。

昔祖母の家に三島由紀夫を特集したグラビア雑誌のようなものがあって、祖母は文学とは程遠い人なので驚いたんだけど、「好きなの?」と聞いたらどうもアイドル的にファンだったらしい。
「制服をビシッと着て、素敵だった」
と言っていた。盾の会のことを言っていたようで、そうか、祖母が若い頃にテレビや雑誌で取り沙汰されていたんだなあ、いいなあ。でもリアルタイムで盾の会の様子を見たら多分私は批判してただろうなあ、形ばかりのお遊びだという論調に従って…。

遅れて知れたことが幸福だったと思うけれど、当時のことをもっと知りたい、この目で実際の三島の言葉に触れてみたかったなあ。

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Posted by eleki