こころなんてしりもしないで・第1話

「よ、お疲れ佐山。ここいい?」
 天丼を前に、箸を握ったまま佐山が溜息をついたタイミングで、同僚の御幸が声をかけてきた。
 昼休み、自社ビルを持つ総合商社の広い食堂は賑やかだ。各部署の社員たちが顔を合わせ、食事をして、煙草をふかし、お喋りに興じている。
「お疲れ、どうぞ」
 御幸は人懐っこい笑顔を見せて、佐山の前の座席へと腰を下ろした。
 御幸が笑った時、どこからともなく溜息が聞こえた。御幸暢彦という、佐山と同い歳のこの男は、誰がどう見たって容姿がいい。高い背と柔らかい物腰と理知的な眼差しと、整い過ぎているのに愛想がいいから嫌味に見えない顔立ち。おおよその人間が羨ましがる見てくれの上、仕事の腕もいいとくれば、女子社員がその笑顔を見てメロメロにならないわけがない。
「あー、まいったまいった、今日も残業になりそうだよ。昼前から残業が決まるってのもすごいよな。まあ、明日も明後日もどうせ残業なんだけど」
 品のいい箸使いで定食のコロッケを割りながら御幸がぼやき、佐山はちょっと笑った。
「珍しいな、おまえが愚痴言うなんて」
 基本的に育ちのいい御幸は、人の悪口や現状への不満を滅多に口にしない。友人のそういうところが佐山は気に入っていた。その御幸が溜息混じりに愚痴を言うなんて、よほどのことだろうと察する。
「今年、結局うちの課は新卒取らなかっただろ。それで美山さんと松が丘さんがいっぺんに辞めちゃったし、引き継ぎもろくにできなくて、こっちはてんやわんやだよ。人事に直接掛け合っても聞く耳持ってくれないし、そのくせ成績不振だ何だって文句言われたら、さすがにやってられない」
「大変だな、営業は」
 御幸は営業部に所属している。佐山と御幸が勤めているのは関東では名の知れた商社だが、不況の煽りを喰って、馘首切りが少ない代わりに新入社員の数がぐっと減った。そのせいで仕事は忙しくなり、忙しくなったせいで人が辞め、人手不足でさらに忙しくなり――と悪循環だ。
「どこも大変だけどな、このご時世。佐山のとこだって大変だろ、外注してた仕事、今じゃほとんど開発持ちだって言うし」
「うちも残業続きだけど、デスクワークだから御幸のところほど苦はないよ」
 佐山の方も、すすんで愚痴を言うほど元気な性格じゃない。たしかに自分が所属する開発課の仕事も、人手が足りないから忙しく、煩雑な作業ばかりだったが、好きでやっている仕事なので不満というほどの不満もなかった。『このご時世』で、残業手当てがそれなりにつくし、ボーナスだってまともに出るのだから、会社には感謝している。
「二課はそれでも週末になれば飲みが入るからな。仕事で飲む上、プライベートでもさらに飲むんだから、物好きと潜在的自殺志願者の集まりとしか思えない」
 笑いながら、御幸が言った。
「そうだ、今週の金曜に一課とも合同で飲むらしいんだけど。佐山も行かないか?」
「俺? どうして? っていうか、御幸も行くのか?」
 エビ天を箸で摘みながら、佐山は首を傾げた。御幸はあまり羽目をはずして飲むタイプではなく、宴会好きの同僚たちの誘いは口実をつけて大抵上手く躱している。何回かに一度は顔を出しているから、つき合いが悪いと陰口を叩かれることもない。
「話の流れで、佐山も連れてこいって言われたんだよ、うちの女子に。嫌だったら断って全然いいんだけど、俺も顔だけ出したらすぐ帰るつもりだし」
「うーん……」
「佐山、下戸だし、そんなに長くは居られないだろって一応言ってはおいたんだけど」
 酒に弱い佐山は、かつては御幸と同じ営業部にいたのに、接待で体を壊して開発課へ異動した。『弱くても飲めば慣れる』と言われ続け、訓練も兼ねて毎晩飲み続けた結果が胃潰瘍だ。もともと開発課希望だったから渡りに船だったが、情けない経歴だと我ながら思う。
「雛川さんと別れてからさ」
 御幸が少し声をひそめて、佐山の方に囁いた。
「営業の女子でおまえのこと気にしてる子、結構いるみたいだぜ」
「物好きだなあ」
「そんなことないって。佐山はいい男だからさ」
「ありがとう」
 礼を言いつつ、佐山はついつい笑ってしまう。会社や取引先で部署年齢を問わず王子様扱いで騒がれている御幸に、「いい男」なんて言われるのはどことなくこそばゆい。
「あ、信じてないだろ。前々から俺は言ってるのにさ、佐山はお買い得だって。仕事できるし、性格だっていいし、だから総務のマドンナとつき合うことになったわけだし」
「結局ふられたけどな」
 軽く答えた佐山に、御幸はちょっと肩を竦めて、そういう仕種が似合っているから佐山は感心した。いい男は何をやっても格好いい。
「見る目がなかったと思うぜ、雛川女史は」
「他の子が俺のこと気にするのは、『あの』雛川さんがつき合った相手だからだろ。何ていうか、雛川さんと一緒にいたくらいだから価値があるんじゃないか――って過剰評価してるっていうか」
「おまえは自分をわかってないよ」
 大まじめに、御幸は佐山を諭している。
「うちの営業にいる奴なんて、ちょっといい会社の名前背負ってるのカサに着て、女にモテることばっかり考えてるのばっかりだぜ。まじめなつき合いならともかく、よく気軽に社内恋愛しようなんて気になれるよ」
 見た目が派手な割にまじめな御幸は、理解できない、というように首を横に振った。こんなふうに御幸が悪態をつくなんて本当に珍しい。よっぽど仕事上の鬱憤が溜まっているのか。
 何とも言えず、佐山はただ苦笑いした。自分も社内恋愛をした口だが、つき合っていた当時は浮ついた気持ちではなく、まじめに結婚を前提として考えていた。
 それが相手の重荷になったというのも否めない。
「社内ならまだしも、部内で盗ったの盗られたの、勝ったの負けたのって。元気だよ、みんな」
 御幸の台詞に、背後から聞こえたけたたましい笑い声が被さった。思わず佐山も御幸も一緒になって、声の方向に視線を遣る。食堂の入口の方が賑やかになっていたが、ちょうど人の影に隠れて佐山には見えなかった。御幸の方は、騒ぎの中心が何なのかわかったようだ。
「ああ――秋口か」
 御幸の口から漏れたその名前に、佐山は反応しないよう反射的に自分を取り繕った。
 しかし、
(重症だ)
 ちょっと頭が痛くなる。
 名前を聞いたくらいで動きが止まりそうになるほどだなんて、我ながら尋常じゃない。
「あいつも派手だよな」
 さして興味のない調子で呟いてから、御幸が前を向き直り、それから怪訝げに首を傾げた。
「ナス、落ちてるぞ。佐山」
「あ」
 言われて初めて、箸からナスの天ぷらが落ち、テーブルの上に転がっていることに気づいた。慌てて、佐山はナスを拾い上げて丼に戻す。
「どうした、もしかして疲れてるのか?」
 御幸は少し心配そうだった。佐山は申し訳ない気分で首を横に振る。
「いや、ちょっと手が滑っただけ」
「ならいいけど。ああ、それで飲み、どうする?」
「……一課も来るってことは……」
 できるだけさり気ない口調になるよう気をつけつつ、佐山は丼にのせたナスを行儀悪く箸でつついた。
「秋口も来るってことだよな」
「秋口? そりゃ、来るだろ。あいつが女子を交えた飲み会に来ないなんて思えないし」
 あ、と何か気づいた様子で御幸が小さく声を上げ、佐山はぎくりとして動きを止めた。
「もしかして、あいつがいると面倒か? 女子の争奪戦でものすごいことになるって噂聞いたことあるんだろ、今も女の子たくさんはべらせてあの騒ぎだし。おまえ、うるさいの嫌いだろ?」
 先刻とは少し違う場所で、先刻のような笑い声がまた、聞こえた。複数の女子社員が大声で楽しげに話す言葉の中、ときおり「秋口さん」「秋口君」という名前が聞こえている。
「いや……」
 慎重に、慎重に、箸を握ったまま御幸を見返し、佐山はまた首を横に振った。
「飲み会、行くよ。外注だった仕事やるようになって、営業とのつき合いも増えたし。繋ぎ作っといた方が、仕事やりやすいしな」
 我ながらよくできた言い訳だ。
 そう思う佐山に、御幸がそっかと頷いた。
「じゃ、金曜の仕事終わったら、一緒に出ようぜ」
 そう言った御幸に頷きながら、佐山は華やかな笑い声が気になって気になって、口に放り込んだナスの味もよくわからないほどだった。

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