こころなんてしりもしないで・第6話

 自分が佐山を誘い続けている限り、沙和子に言い寄るチャンスはない。
 そう理由づけて、秋口は翌日も佐山に声をかけた。
「ごめん、今日は残業してかないと」
 昼休みに食堂で見かけた時に「帰りにまたどこかへ寄らないか」と誘った秋口に、佐山は定食のトレイを手に申し訳なさそうな顔でそう答えた。
「そうですか、じゃあ仕方ないか」
 まさか断られるなんて、まったく思っていなかった秋口は、少々鼻白んだ。というか、多少ながらにプライドが傷ついた。自分から誘った相手に断られるなんて生まれて初めての経験だ。これまで相手はすべて自分好みの女だった、という違いを除いては。
 などという内心を悟られるような愚は犯さず、秋口は軽く笑みを浮かべると、自分も食事を頼むためにカウンタへ向かおうとした。
「あ、秋口」
 立ち去ろうとしたところを、佐山に呼び止められた。
「今日と明日は無理だけど、明後日なら多分一段落ついて少し時間があるんだ。明後日はどうかな」
「いいですよ、忙しいのなら、無理しなくても」
 佐山の仕事が手一杯なのは秋口も実は承知していた。その上で、なぜか佐山が自分の誘いを断るなんて予測もしていなかったのだ。
「秋口の都合がよければ、この間のところにもう一回行きたいんだ。料理、ひとつしか食べられなかっただろ。他のも試してみたくて」
 秋口の機嫌を取るふうでもなく(そもそもそうしなければいけない理由はない、と秋口にもわかっているが)、笑いもせず、かといって突慳貪でもない不思議な調子で、佐山が言った。あえて言えば『自然な調子』だった。
「じゃあ……明後日」
 断る理由は秋口にはないのだ。そもそも最初に誘ったのは自分の方だし、沙和子が佐山につけいる隙を与えないのが目的なのだから。
「明後日の仕事が終わったら連絡する」
 最後にちょっとだけ笑って、佐山はトレイを持って座席を捜しに行ってしまった。
「秋口さん! おひとりでしたら、ご一緒していいですかぁ?」
 その姿を何となく立ちっぱなしで眺めていたら、見覚えのある女子社員に声を掛けられた。反射的に頷くと、次から次へと他の女たちもやってくる。「まぁたやってるよあいつ」と聞こえよがしにやっかんだ男性社員の声がどこかから聞こえた。いつもならそれに優越感を覚える秋口だったのに、今はどうしてかあまり気にすることができなかった。
 そうしてその翌々日に秋口は約束どおり佐山と一緒に前回と同じ店に赴き、前回と同じように料理を食べ、他愛ない話をして時間を過ごした。
 佐山はあまり饒舌に語ることがなかったが、相槌を打つ調子やタイミングが落ち着いていて、どことなく秋口には心地いい。秋口が水を向ければ自分のこともなめらかに話した。
「免許は持ってるけど車は持ってないんだ、住んでるところは駐車場がないし、維持する自信もないし」
「金がないってわけじゃないんでしょう?」
「ガス代とか車検とかはいいんだけど、手入れがなあ……」
「人任せにすればいいのに。部屋にしろ、最近は何でもやってくれる業者があるじゃないですか」
「片づけない割に、人に手を入れられるのが嫌なんだよ。我儘なんだ」
 佐山は相変わらず食が細く、注文したカレーをちょっとずつ口に運んでいる。秋口の方はピザやら、カルパッチョやら、サラダまで平らげた上、さらに追加しようかとメニューを手にしている状態。
「佐山さんが我儘っていうのも、あんまりピンと来ないですけどねえ」
「秋口は免許持ってないのか?」
「運転するよりさせる方が好きです」
「らしいなあ」
 笑って、ゆっくりゆっくりとスプーンを口に運ぶ佐山を眺めているのは、何となくおもしろかった。喋り方にしろ、食べ方にしろ、佐山はやっぱり『マイペース』だ。
 それが、そう不快ではなくなっている自分に、秋口は気づいている。
(そうぼんやりってわけでもないんだ)
 早口ではないだけで、話す内容はひとつひとつに手応えがある気がした。佐山は人の話を聞くのがうまいようで、秋口が言ったことをすぐに把握したし、的確に答えを返してくる。ちょっと捻ったジョークを言ってみても、お愛想ではなく小さく笑い声を立てた。多分、自分が思っていたよりもずっと頭のいい人なのだろうと、秋口は自分の安易な評価を少々反省した。
 自分の気に入られようと何にでも過剰に相槌を打つ女より、派手な自分に気後れしたり、内心で嫉妬心と蔑みの入り交じった微妙な感情を持って当たり障りない会話しかできない男より、佐山の声を聞いている方が楽しいことに気づいてしまう。
 そういえば何で自分はこの人のことを嫌ってたんだっけ、と考えて、秋口はようやく沙和子のことを思い出した。
「佐山さんは――」
 追加の料理を頼み、それがやってくるまで皿もグラスも空になった隙間の時間、さり気ない調子で秋口は佐山に呼びかけた。
「こないだ、部屋片づけてくれる人はいないって言ってたけど、じゃあ今、恋人とか、好きな人っていないんですか」
 さり気ない質問だったつもりなのに、佐山がカレースプーンを手にしたまま軽く噎せ返ったので、秋口は驚いた。
「大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫」
 佐山は涙目になって、おしぼりで口許を押さえた。結構な辛さのカレーが気管にでも入ってしまったのか、咳払いをしたり、水を飲んだりしても収まらないようで、俯いて何度も噎せている。辛さのせいか苦しさのせいか涙も止まらず、佐山は眼鏡を取っておしぼりで目尻を押さえている。
(やっぱりこの人、トロいのか)
 気持ちの上っ面でそんなことを考えつつ、秋口は眼鏡を取った佐山の顔に、視線を釘付けにした。
(……やっぱりこの人、眼鏡取ったらまともな顔してる気がするんだけど)
 元々童顔なのが、目許を赤くして涙目になっている様子は、とても三十代を間近にした男のものとは思われなかった。大学生だって、今どきもっと男臭いだろう。
 佐山が噎せている間に追加の料理と酒がやってきて、「大丈夫だから食べてくれ」と佐山に仕種で言われてから、秋口は自分がずいぶんまじまじとその様子を眺めていたことに思い至った。
「ああ……苦しかった」
 ようやく収まったのか、洟を啜りつつ、佐山がひとり呟いている。再び眼鏡を掛ける佐山に、
(勿体ない)
 と秋口はぼんやり思った。
「佐山さん、結構目、悪いんですか」
「え? ああ、そうだな、子供の頃から割合」
「コンタクトにすればいいのに。眼鏡、重くありません」
 自分の言葉で佐山がコンタクトに変えたらおもしろい――などと算段する自分の気持ちが、秋口にはいまいちよくわからない。
「昔ちょっとだけコンタクトつけてたことあるんだけど、目に合わなかったんだ。アレルギーっぽくって」
「勿体ないなあ」
「そうだな、最近はコンタクトもだいぶ安くなってるし」
 再びスプーンを手にした佐山に、秋口はつい苦笑する。会話しやすく勘のいい人だ、と思ったのは撤回すべきか。
「コストの問題じゃなくて、眼鏡ない方がまだ見栄えするんじゃないかってことですよ」
「まあ……今さら何をどうしようと秋口ほどには」
 微妙な空気になってしまった。
(まだ、とかわざわざつける必要はなくて)
 やっぱりどうも未だに、癖のように佐山に対して嫌味な言い回しをしてしまう。怒らない佐山は大人だ。
(……別に普通に褒めたってよかったのに)
 成り行き上とはいえ恋敵を、手放しで褒めるのはどことなく口惜しい。最初から余計なことを言わなけりゃよかったと秋口は後悔した。
 その後はあまり会話の弾むこともなく、秋口の追加料理と佐山のカレーを同時に食べ終え、何となくお開きの流れになった。
 今日はそれぞれの代金を自分で支払った。佐山と並んで店を出ながら、秋口は「あ」と思い出して声を上げた。隣の佐山が秋口の方を見る。
「どうした?」
「さっきの質問の答え、結局聞いてませんでしたよね」
 前回よりも長く話し込んでいたせいで、今日はもう少し遅い時間になっていた。曇って星も出ていない路地を、大通りに向かって並んで歩く。
「さっき?」
 腕時計で時間をたしかめながら、佐山が問い返した。
「恋人か、好きな人はいないのかって」
 暗くて文字盤がよく見えないのか、佐山の視線は時計に落ちたままだ。
「……いる。……かな」
 ぽつりと、小さな声が聞こえて、秋口は佐山の方を見た。俯いた佐山の顔はよく見えなかった。
「……恋人が?」
 まだ左腕を見たまま、佐山が微かに首を横に振る。
 秋口は少しぎくりとした。
「好きな人が?」
 今度は、佐山は何も答えなかった。
「じゃあ、俺はこっちだから」
 佐山は会社最寄りの駅方面を指さし、やっと左腕を下ろした。まだ何となく俯いている。自分から離れたそうにしている佐山を引き留めるように、秋口は再び口を開いた。
「うちの会社の人ですか?」
 沙和子か、と訊ねればやぶ蛇になりそうで、秋口はぼかした訊き方をする。どっちにしろ、佐山が沙和子に未練があるとは、秋口には思えなかった。そうだったら、沙和子があんなに躍起にならなくたってすむ話だ。
「ごめん、秘密」
 佐山が困ったように小さく笑った。
 秋口は微かにムッとする。
「信用ないなあ、俺には話せないってことです?」
 我ながら白々しい台詞だと思いつつ、まるで一昨日の昼に誘いを断られた時と同じ気分で、秋口はそう訊ねた。
「誰にも秘密だよ、聞いておもしろいもんでもないだろ」
「御幸さんにも?」
「御幸は……バレた」
 小さい声で、珍しく早口にそう言うと、佐山は逃げ出すように「それじゃ」と駅に向かって歩き出した。
 追いかけて腕を掴んで問いつめてやりたい気がしたが、そうする上手い言い訳が思いつかず、秋口は諦めて自分も帰宅の途についた。
1