こころなんてしりもしないで・第7話

(痛い)
 鈍痛で目が覚めた。
 ずきずきと、脈打つようにこめかみの辺りが痛んでいる。胃が重たくて、気持ち悪い。喉から胃液が逆流してきそうだ。
 こんな感触には覚えがある。営業時代によく味わった、紛れもない宿酔いの状態。
「うー……」
 体全体が怠くて、瞼は重くて、目が開かない。外がもう明るいことは、閉じた瞼越しにもわかった。一瞬、会社に遅れる、と思って肝が冷えたが、すぐに「今日は土曜日だ」ということを思い出す。午後から出社するつもりではあったが、基本的には休みの日だ。休んだって咎められることもない。
 そこまでひどく間延びした思考で結論を出すと、佐山は少し落ち着いた気分でベッドのシーツに頬を擦りつけた。枕がなくて、横向きに丸まるような格好をしていた。うっすら目を開けて見ると、すぐそこにベッドのふちがある。何だって自分はこんな端っこで眠っていたのだろうか――と訝しみながら、佐山は軽く伸びをした。またこめかみで鈍痛が響くが、どうにかやりすごす。
 カーテンから漏れる光で、すでに陽が高いことがわかり、佐山はいい加減起き出さなくてはと思いながら小さく身じろぎした。
 と。
「え?」
 動かした腕に、何か暖かいものが当たって佐山は眉を寄せる。暖かいくて、弾力のある、明らかに、
(……人肌?)
 恐る恐る、佐山は背後へ首を巡らせた。
 と。
「……ッ!」
 驚きのあまり声も出ず、ただひたすらに、両目を見開いてしまう。
(な、何で)
 口から心臓が飛び出るかと思った。なぜか、どういうわけだか、自分の隣では秋口が仰向けになって規則正しい寝息を立てているのだ。
 おまけに、裸の肩が剥き出しだ。タオルケットが掛かっているから、全身素っ裸なのかまではわからない。佐山は慌てて自分の姿を確認した。辛うじて下着はつけているが、シャツは着ていない。また恐る恐る床を見ると、ふたり分のズボンと一枚分のシャツが、積み上げられた本の上にかけられている。そのの上に眼鏡。シャツ一枚だけが丸めて床に落としてあった。これが佐山のものだ。
 痛む頭を押さえながら、佐山はどうにかベッドの上に起き上がった。とにかく眼鏡を拾って掛ける。
「……あれ……」
 寝乱れた髪を押さえるように掻き上げながら、佐山は丸まったシャツと、秋口の寝姿を交互に見遣った。
 必死になって、ゆうべのことを思い出す。
(いつもの店が閉まってて、買い物をしてうちに来て、それでメシ喰いながら、ちょっとだけ酒入れて――)
 覚えているのは、そこまでだ。どうやら苦手な酒を飲んで、途中で潰れてしまったらしい。秋口に勧められたビールを一口二口飲んだ辺りから、すでに記憶が怪しくなっている。
(……変なこと、言ってないよな?)
 おぼろげに覚えているのは、秋口がそこはかとなく苦笑する顔。自分は多分、彼に何かを言いつのり、だが何を言ったのかサッパリ覚えていない。
 とにかく秋口が起きる前にベッドから抜け出そう、と佐山は痛む頭を押さえながらまた身じろぎした。こんな格好で秋口と顔を合わせるところなんて考えたくもない。
 そう思ったのに、佐山がベッドを下りるよりも早く、秋口の目が開いた。フッと、前触れなく瞼が開いたのに、「寝起きがいいんだなあ」とこんな時なのに佐山は感心してしまう。
 秋口は眠たそうに一度ぎゅっと目を閉じてから、佐山の方を見上げて、気怠そうに吐息した。
「……おはようございます」
 寝起きの掠れた声に、佐山は頭の芯がぐらぐら揺れる感触を味わった。腰に来そうになって、慌ててその声を意識から追いやる。さり気ない素振りでタオルケットを引っ張り上げた。
「ええと……秋口、泊まったのか」
 秋口から目を逸らしつつ、佐山がそう言うと、無言が返ってきた。
 あれ、と思って秋口を見下ろしたら、思い切り曇った顔が見える。
「秋口? あの……悪い、俺、昨日のこと全然覚えてなくて」
「……ああ」
 うわの空な様子で、秋口がやっと頷く。天井を見上げ、また大きく息を吐き出していた。
「そうか」
 秋口はひどく不機嫌そうだった。そのことに佐山は慌てる。もしかしたら、酔っぱらって秋口の迷惑になるようなことをしてしまったのだろうか。
 そう訊ねることもできず、どうしたものかと所在なくベッドの上で佐山が座ったままでいると、秋口が軽く目を閉じてまた口を開いた。
「すみませんけど、水か何かもらっていいですか」
「あ、う、うん」
 急いでベッドから下りようとした佐山は、途端また鈍痛を感じて頭を押さえ、思わずうずくまった。呻き声を上げていると、隣で秋口が起き上がる気配がする。
「自分で取ってきます」
 秋口がぶっきらぼうにそう言って、ベッドを下りる。
「あー……悪い、冷蔵庫にミネラルウォーターが入ってるから」
「佐山さんも飲みますか?」
「うん」
 あちこちに積まれた荷物を乗り越えながら、隣のダイニングキッチンへ向かう秋口の後ろ姿を、佐山はそっと見遣った。秋口も下着ははいている。
 男女じゃないんだから、たとえ素っ裸で寝ていたって、男同士なら妙なことになったと想像する方がおかしい。
 そうわかってはいても、何しろ相手が秋口なものだから、佐山はうろたえずにはいられなかった。これがたとえば御幸あたりだったら、特に何も感じなかったに違いない。
 秋口が戻って来たので、佐山は慌てて目を逸らした。頭痛に気を取られているふりで俯く。実際ひどく頭は痛み続けていた。
「どうぞ」
「あ、ありがとう」
 目の前にぬっと出てきたペットボトルを佐山は受け取った。いただきます、と秋口が礼儀正しく言う声が聞こえる。佐山もキャップを開けて、水を一気に飲んだ。冷たい液体が喉を潤し、少し落ち着く。
「……すみません」
 大きく息を吐いていると、そんな秋口の声が聞こえて、佐山は自然彼の方を見上げた。秋口はベッドの脇で、座りもせず、立ちっぱなしだ。
「え?」
「佐山さん眠っちゃったから、帰ろうと思ったんですけど、鍵の場所もわからないし、俺も眠たくて。床をお借りしようと思ったんですけど、その」
 秋口がごちゃごちゃとものの積まれた床を見下ろし、佐山は恥じ入った。
「そうだよな、寝る場所ないよな、これじゃ」
「なんで俺も、ベッドをお借りして」
「うん」
「皺になると悪いと思ったんで、佐山さんもズボンだけ脱がせたんですけど、暑かったからシャツも脱いじゃったみたいですね」
 秋口の言葉は、どこかいいわけめいた響きがあって、佐山には不思議だった。
「そっか、ありがとな。パジャマくらい出してやれればよかったんだけど……」
「いえ」
 短く答え、秋口は一気に水を飲み干した。ペットボトルをテーブルの上に置いて、自分のシャツとズボンを手に取ると身にまとい出す。
「あ、ええと……帰るのか?」
「はい。泊まるつもりもなかったし」
 答える秋口の言葉はやっぱりぶっきらぼうで、佐山はにわかに不安になった。
 最初の頃、自分と顔を合わせるたびに呆れたり、小馬鹿にするような表情を見せていた秋口だが、最近は心なしか当たりがやわらかくなっていた気がする。少しは自分に気を許してくれたのだろうと、佐山はおぼろげに理解していたのだが。
(やっぱり、酔っぱらって、秋口の気に障ること口走ったんだろうか)
 そのことについて訊ねるべきか、触らずにいるべきか迷っているうち、秋口はすっかり身支度を調えてしまった。
「それじゃあ、お邪魔しました」
「あ――秋口」
 すぐに玄関口まで向かおうとする佐山は、とっさに秋口を呼び止めてしまった。秋口が無表情に振り返る。その顔を見たら、佐山の気持ちが竦んだ。
「いや……気をつけてな」
 小さく頷くと、秋口はあとは何も言わず、佐山の部屋を出て行った。
「……」
 佐山は呆けたようにベッドに座り込んだまま、それを見送る。静かにドアの閉まる音がした。
「……痛て……」
 相変わらず頭は鈍く痛んでいる。
 佐山はこれ以上考えるのが面倒になって、眼鏡をサイドテーブルに置くと、そのまま再びベッドへ横たわった。
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