こころなんてしりもしないで・第7話

「佐山さん、今晩も空いてますか?」
 月曜日、会社で顔を合わせるなり秋口に訊ねられ、佐山は頭の中で自分の予定を反芻してから、頷いた。
「また少し遅くなるけど、それからなら」
「俺も定時には終わらないですから、八時にいつものところで、どうですか。念のため予約入れておきました」
 予約、という言葉に佐山は少し驚いた。その気配に気づいたのか、秋口が少し照れ臭そうな顔で笑う。
 そんな秋口の表情に、佐山はつい見とれた。
「待つの面倒でしょう。本当は予約は取らないそうなんですけど、顔見知りになった店員に電話したら、時間どおりに必ず来るなら取っておくって」
「店員、女の子?」
 軽口のつもりで訊ねた自分の言葉が、妙な具合に勘ぐっているように聞こえやしまいかと、佐山は内心ひやりとした。
 秋口がかすかにばつの悪そうな苦笑いになったのを見て、佐山の焦りが募る。
「だよな、や、でも、助かった、秋口そういうところ、そつなくて」
 言えば言うだけ深みにはまっている気がしないでもないが、とにかく、佐山は秋口と今日も夕食の約束をして別れた。
「ふうん、本当に仲よくなったんだな、おまえら」
「うわ」
 秋口の後ろ姿を何となく見送っている時、背後、間近で聞こえた声に、佐山はぎょっとして振り返った。
「み、御幸、何だよ、驚かすなよ」
「たまたま通り掛かったんだよ、聞かれたくなかったんなら廊下で話してるおまえらが悪い」
 友人はしれっと言って、佐山の隣に並んだ。始業後数時間経った昼休み少し前、佐山は備品を取りに倉庫へ向かうところ、御幸も資料を手にしているから、社内を移動する途中のようだ。
「別に、聞かれて困るってわけでもないけど……」
「恨まれてるぞ、おまえ、女子社員たちに。秋口を独り占めしてるってな」
 からかう声音の御幸に、何とも答えがたく佐山は口を噤む。
「秋口も恨まれてるけどな、充分」
 今度の御幸の言葉には、首を傾げた。
「恨まれてるって、誰に?」
「主に俺に。佐山君最近つき合い悪くって」
「って、別に俺、誘われてないよな?」
 少し慌てた佐山を横目で見遣ってから、御幸が口端を持ち上げてにやっと笑った。
「野暮な真似したくないからな」
 やっぱり佐山には、何と答えたものか、言葉が思いつかない。
 御幸が佐山の耳許に唇を寄せ、声をひそめて訊ねた。
「で、うまくいってるのか?」
「うまく……? いってる? のか?」
「何だよ、煮え切らないなあ」
「だってただ単に、先輩後輩としてっていうか、仕事仲間として飲んでるだけだぞ。その……俺の下心、のようなもの、は知らないわけだし、向こうは」
「普通に店でメシ喰ってるだけ?」
「だいたいは。先週末は、いつも行ってる店が混んでたから、うちに来たけど……」
「嘘」
 御幸は大仰なほど、驚いた顔で大きく目を見開いて見せた。
「おまえ、秋口をあの部屋に入れたのか? 俺以外の他人を?家族でもなく?」
「流れで、何となく」
「……ふーん……」
 考え込む顔で、御幸が指先を自分の顎に当ててとんとんと叩いた。
 それから、ふっと、苦笑のような笑みを浮かべる。
「おまえ、本当に好きなんだな。あいつのこと」
「……何、急に」
「佐山が自分の部屋に人招くなんてさ、なかっただろ? これまで。雛川さんの時も」
「そりゃあ、あれだけ散らかってれば、人呼ぶのなんて申し訳ないし」
「散らかってるとか、散らかってないとか、そういう問題じゃなくて――」
 御幸がどことなく、まじめな顔になって佐山の目を覗き込んだ。
「おまえの部屋はさ、テリトリーだろ。殻っていうか……滅多なことじゃ踏み込ませない場所なわけだし」
「そこまで大袈裟なもんじゃないよ、現に御幸だって来るだろ」
「佐山、俺がおまえの部屋に入れてもらえるまで三年かかったって、わかってるか?」
「……そうだったっけ?」
「そうそう。俺たちがまともに自分たちのこと話すようになったのも、その辺だろ」
「……そうかも」
 笑って、御幸が佐山の背中を叩いた。
「いい傾向いい傾向。佐山はもうちょっと自分ってもん他人に晒してけよ、そしたら、秋口だっておまえの価値に気づくさ」
「俺の価値、ねえ……」
 御幸の言っていることは、佐山にはいまいちわからなかった。
 何も隠しているつもりはないし、殻を作っているつもりもない。秋口にも、その他の人たちとも、自分なりにそれらしくつき合っているつもりだ。
「相手が秋口ってのがいささか不安だけどな……」
 今度の御幸の言葉はひとりごとに近かったから、佐山は特別返事をしなかった。
「じゃ、空いてる時は俺も誘えよ」
 御幸はもう一度佐山の背を叩き、廊下を歩いて行った。
 夜になると、佐山は約束どおり秋口と落ち合い、いつもの店へ向かった。店は相変わらずの繁盛ぶりだったが、秋口が店員に自分の名前を耳打ちすると、店員は心得たように頷いて店の中へふたりを案内した。客で賑わうフロアを通り抜け、ついたてに隠されたドアを店員が開いて、急ぎ気味にふたりを手招く。佐山は秋口と一緒に、慌ててその中へ身を滑らせた。
「ここは貸し切りの時に使うお得意様用のフロアなんですけど。特別に」
 年配の女性店員が、そう言って秋口に目配せした。もしかしたら彼女が店主なのかもしれない、と佐山はおぼろげに察する。メニューを置くと、彼女は一度部屋を下がっていった。
「いいのかな。あんなに混んでるのに、こんな広いところふたりだけで入っちゃって」
 広い、と言っても、通常の客が使うフロアよりはぐっと狭まる。客は十人も入れば一杯になってしまうだろう。その代わり机や椅子はかなり上等そうなもので、飾り棚も、そこに並んだ皿やオブジェも、ぐっとグレードが上がっているように見える。本当に、賓客のための部屋なのだろう。
「ここまで開けて満杯にすると、料理の方が追いつかないからって言ってましたよ」
 秋口は平然とした態度で上着を脱ぎ、椅子に腰かけた。佐山もそれに倣う。
「その代わりあまり面倒は見られないから、料理を運んだら放っておくって言われましたけど」
 メニューを佐山に手渡しながら、秋口が笑う。佐山は彼がいかなる手段をもってこの部屋を借りるに至ったのか、訊ねようと思ってやめた。何となく落ち込む結果になりそうだと思った。
(そんなに心が狭い方でもないと思ってたんだけどな)
 先刻の店員は、歳は多少いっているようだったが、それでも充分な美人だ。それに怜悧そうな顔立ちだった。秋口はああいう美人が好みなのかもしれない、などと思ってしまえば、自分との違いに落ち込むしかない。
 考えないようにして、佐山はメニューから料理を選んだ。しばらく待つと先刻の女性が注文を聞きに来て、大分長い時間待たされた後やっと料理が来た。本当に忙しいらしくて、女性は遅くなったことを詫びたが、佐山はむしろ申し訳ない気分になった。
「やっぱり悪いな、混んでるのに」
 女性が出て行った後、フォークを手に取りつつ佐山は呟いた。
「遅くてもよければって約束で、それに今回限りだから、そんなに気にしなくても大丈夫じゃないですか。結構待たされたけど、静かなところ借り切れてラッキーって思ってください」
 そう言った秋口を、佐山は不思議な気分になって見遣った。
「どうしてわざわざ予約まで? この時間なら、今日はまだ他の店やってるだろうし……あ、もちろん、俺は嬉しいんだけど。この店はすごく気に入ったし」
「だからです」
「え?」
「佐山さん、この間ここに入れなくてがっかりしてたでしょう。次は春巻き食べてみるって楽しみにしてたのに」
 秋口の言葉に、佐山はぎゅっと胸が締めつけられるような喜びを感じた。
「俺のために?」
「まあ――俺も来たかったですし」
 秋口が憮然とした顔になったのを見て、佐山は今浮き上がった気分が急に沈んでしまった。一喜一憂とはこのことだろう。佐山にはなぜ秋口が不機嫌そうな顔になってしまったのかわからず、落ち着かない心地になった。
 料理が来るまでは、仕事のことや他愛ない世間話でそれなりに話が弾んでいたのに、秋口が不機嫌になると、あっという間に部屋が静まりかえってしまった。秋口は黙って料理を口に運び、佐山も黙然とフォークを動かした。
(何か変なこと言ったか? 俺)
 気になって、せっかくの料理の味がわからなくなってしまう。あまり食事という行為に興味がなかった自分が、こんなにも気に入るなんて、奇蹟みたいなもんだと思っていた料理なのに。
(料理のせいじゃないのかも)
 もそもそと春巻きを噛みながら、佐山はそんなことに気づいた。
 もちろん料理は絶品だとは思うが、それ以上に、一緒に食べる相手が秋口だから余計美味しくて、楽しいと思っていたのだ。多分。だって今はこんなに料理が味気ない。
 どうにか会話のタイミングを掴もうとして、佐山は「この春巻き美味いな」とか、「このラッシーって今まで飲んだことなかったけど、結構癖になるな」とか笑って話しかけてみたのに、秋口は「はあ」とか「そうですか」とか気のない返事をするばかりだ。
 佐山はどんどん胸が詰まってきて、春巻きを半分食べたところで、もう食欲がなくなってしまった。
 自分の皿を見下ろしたまま黙々と料理を食べていた秋口が、すっかりフォークを持つ手を止めてしまった佐山に気づき、怪訝な顔になる。
「佐山さん? もういいんですか?」
「あ、いや……」
 せっかく秋口が無理を言って部屋まで借りてくれたのに、食事を残すなんて彼にも店にも失礼だと思い直し、佐山は無理に春巻きを口に押し込んだ。
「……何か、機嫌悪いですか?」
「え」
 探るように秋口から訊ねられ、佐山は手加減なくぎょっとした。おまえが言うのか、と言い返したいのを、ようよう堪える。
「いや、全然、そんなことは、ないけど」
「そうですか」
 秋口はやっぱり憮然と、カクテルを飲み干した。テーブルの上のピッチャーを手に取り、手酌でお代わりしている。
「佐山さんって、結構人によって態度、変わる人です?」
「え……」
 また佐山が驚くような台詞を秋口が言った。まるで責めているような口調だった。
「そんなこと、ないと思うけど。そりゃ、友達と取引先のお偉いさんの前じゃ変わるだろうけど……」
 戸惑いつつ、そう答える。「ふうん」と頷いて、秋口がまたカクテルを口にした。
 それから、グラスを片手に佐山の方を見て、軽く首を傾げる。
「俺の前で作ってません?」
「作ってる……って……」
 佐山の脳裡に、昼間御幸に言われた言葉が浮かんだ。佐山はもうちょっと自分ってもん他人に晒してけよ、という。
「わざとやってるってことは、全然ないけど」
 御幸にも秋口に言われるということは、もしかしたらそういう部分があるのかもしれないが、少なくとも意識しているわけではない。
 だからそう答えた佐山に、秋口が小さく何度も頷いた。
「まあ、あの時は佐山さん、すっかり酔っぱらって正体失くしてたっぽいし」
「あの時? ……金曜日?」
「そうです」
 記憶のない先週末の話を持ち出され、佐山はじんわりと背筋が冷える心地がした。
「もしかして俺、酔っぱらって、秋口に失礼なこと言ったりしたのか?」
 それで秋口の機嫌が悪かったのかもしれない。わざわざひとけのないこの部屋を借りてくれたのも、自分の非を糾弾するためだったのかもしれない。
 そこまで思い至って、佐山は蒼白になった。
「失礼……ってことは、ないと思いますけど」
 秋口は含むような言い方をする。佐山はますます青くなった。
「ごめん、いや、何言ったかも思い出せないうちに謝るのはよくないと思うけど」
「まじめですよね、佐山さんは」
 秋口が小さく微笑んだ。いつもならみとれてしまいそうなその笑顔に、佐山はどんどん肝が冷えていく心地だった。秋口は何も楽しくて笑っているという表情でもなかった。
「でも本当は、もう少しくだけた人なんじゃないですか? 酒入った時、佐山さんちょっと子供みたいだった。俺がもう帰るって言ったら、まだダメだって駄々っ子みたいに」
 まるで覚えていない。佐山は恥ずかしくて目許を赤くした。青くなったり赤くなったり忙しい。
「悪い、記憶、ないんだ。困らせたよな、悪かった」
「俺に抱きついたのも覚えてない?」
「――ッ」
 思わず、佐山は手にしていたフォークをテーブルの上に落とした。
「だ……抱きついた?」
「覚えてない?」
「……」
 無言で、佐山はぶんぶんと必死で首を横に振った。まったく何ということをしてしまったのかと、自分を殴りつけたい気分だった。
「そっか……」
 細く、秋口が溜息をつく。佐山はとにかく落ち着こうと水を飲んだ。
「その後俺に、好きだって言ったことも?」
「……ッ!」
 今度は水の入ったグラスを取り落としそうになり、佐山は危うくのところでそれを堪えた。震える手でグラスをテーブルに置いたら、思いのほか大きな音がして自分で驚く。
「ああ、違うか。俺が訊いたんだ、佐山さんは俺のこと好きなのか、って」
「ごめん!」
 佐山が立ち上がり、その勢いで椅子が後ろに倒れた。秋口が驚いたように佐山を見上げている。
 そんな秋口の表情も見えないくらい混乱して、佐山は真っ白な頭でひたすら謝罪を口にした。もうまともに物を考えられなくなっていた。
「本当に、ごめん、違うんだ、そんな……言うつもりはなくて、全然、覚えてなくて、俺は」
 自分でも何を言っているのかわからない。恥ずかしくて、目の前に涙が滲み、余計情けない気分になる。
 酔っぱらって、秋口本人に、気持ちを告げてしまった。
 そして秋口は気分を害して、きっと、とても怒っている。
「……ごめん!」
 椅子にかけた上着を取り、佐山はそのまま部屋を駆け出そうとした。
 それより早く、後ろから腕を掴まれる。驚いて振り返ると、すぐ間近に秋口がいた。広くはない部屋で、佐山の前にはもうドアがあったが、そのドアを秋口が腕で押さえてしまう。
(怒ってるんだ)
 真剣な顔で自分を見下ろす秋口のことを見ていられず、佐山は咄嗟に顔を伏せた。酔った勢いで男に告白されて、それで嫌な気分にならない人間がいるはずがない。その上秋口はどんな美女でもよりどりみどりの男なのだ。
「ごめん、忘れてくれ、秋口のこと怒らせるつもりはなかったんだ」
 とにかくこの場を逃げ出したい一心で秋口の腕を振り解こうとするのに、秋口は許さず、佐山はむしろその腕に体を押さえつけられるような格好になった。ドアに肩が当たってひどく痛む。だがそれに文句を言う権利なんてないと思う。どれだけ罵られたって、たとえ殴られたって文句なんて言えない。
「気持ちの悪い思いさせて、ごめん、そんなふうに言うつもりは本当に、なくて」
 秋口を不快にさせたと思うと、自分がどうしようもなく情けなくて、堪えきれず佐山は涙をこぼした。それで余計にまた恥ずかしく居たたまれない気分になり、せめてみっともない泣き顔なんて見せてますます秋口を不愉快にさせたりはすまいと、顔を伏せる。
 だが秋口は片手で佐山の腕をきつく掴み、反対の手で佐山の顎に手をかけると、顔を上向かせた。
 謝る言葉も掠れて上手く出なくなってしまった佐山は、なすすべもなく小さく肩を揺らした。子供みたいにしゃくり上げる自分がなんてみっともないのだろうかと、消え入りたい気分で思った時、目の前に影が近づいてきたことに気づいて、反射的に顔を上げる。
(――え)
 秋口にきつく押さえられた顎が痛む。
 だがそんな痛みも一瞬でかき消えてしまいそうな、まったく別の感触。
「あ……きぐち?」
 問う声は掠れて、ほとんど音になっていなかった。
 その声を吸い込むように、秋口がもう一度、佐山の唇に唇で触れる。
 キスをされているのだと、そう理解した瞬間、佐山は心臓を拳で殴られたような衝撃を味わった。
「ん……ッ」
 驚いて、咄嗟に秋口の胸を押し遣ろうと、掴まれたままの腕を動かす。だが秋口の手がそれを封じ込め、佐山はそれで身じろぎひとつできなくなった。
 本当はほんの数秒のできごとだったのかもしれない。
 しかし佐山はずいぶんと長い間秋口に唇を重ねられていたような気がして、途中からはもう呆然と、ただなすがままになっていた。
 大人しくなった佐山から、秋口がゆっくりと唇を離す。
「秋、口……」
 わけを問おうとどうにか声を絞り出した佐山の間近で、秋口が眉根を寄せてそれを見返した。
「黙って」
 そう言われて、もう言葉を発することすら佐山にはできなくなってしまう。
 秋口にされるまま、眼鏡を奪われ、もう一度接吻けられた。
 正気を保っていられなくて目を閉じる。瞼を下ろすと涙が落ちた。指先でそれを拭われる感触。どうして、とまた思ったが、佐山はやっぱりそれを秋口に訊ねることはできなかった。
 何ひとつ思考なんてできない頭のまま、佐山は何度も秋口と唇を重ねた。
3