こころなんてしりもしないで・第7話

 その日の夜は、たまには場所を変えるかと佐山の方から言って、いつもとは違う店に秋口と一緒に向かった。昨日の晩のことを思い出して平静ではいられない気がしたからだが、もちろんそんな理由は言わずにおいた。
 いつもの店ほどではないが、そこそこ美味い料理をふたりで食べ、そのまま互いの家に帰った。テーブルを挟んでふたりともまったくいつもどおり、仕事の話とか、他愛ない世間話だけして別れた。
 佐山は肩透かしを喰らったような、安堵したような、複雑な気分になって、この日もまたよく眠れなかった。
 次の日の午後、佐山は外回りから帰ってきた秋口と休憩所で顔を合わせ、どちらからともなく人目を盗むようにまた倉庫に向かって、またキスを交わした。
 本当はどうするべきなのかわからなかったが、わからないまま曖昧な気分で触れ合っているのも無駄なことだと思ったので、秋口とキスする間、佐山はその気持ちよさと嬉しさだけをひっそり味わった。それを表に出さないよう充分注意しながら、好きな相手と触れ合える幸福を受け取った。
 ただし秋口と離れてしまえば、なるたけそんな気持ちも、秋口とそうしたこと自体も忘れるよう努めた。どうせ考えていたら仕事にならない。
 その後は週末まで佐山も秋口も仕事が立て込んでいて、会社で言葉を交わすことも、一緒に食事に行くこともなかった。
 一度そうなってしまえば貪欲なもので、秋口に会えない時間が辛くなる。それを忘れるために仕事に打ち込んでいたら上司に褒められたので、怪我の功名だと思っておいた。
「何か佐山、やつれてないか」
 週明け、昼休みに食堂で御幸と行き会い、向かい合ってランチを取る最中、佐山は相手に顔を顰められてしまった。
「また面倒臭くて家で飯喰ってないんだろ。自炊しろなんて無駄なこと言わないから、せめてできあいの弁当でいいんだ、ちゃんと喰えよ。サプリだけじゃ栄養が足りるってことはないんだからな、カロリー取れカロリー」
 佐山が食にあまり興味を持たないことを、つき合いの長い御幸はよく承知していた。まるで家族のような口調でそう言う。
「ここんとこ色艶よかったのに。秋口と飯、行ってたんだろ」
「まあ、たまに……」
 佐山は曖昧に言葉を濁した。秋口の名前を聞いただけで、つい狼狽してしまいそうになる。食事に行っているのだろうと言われているだけで、それ以上の何をしていると問われたわけでもないのに。
 動揺を誤魔化そうとした友人の態度に、目聡い御幸はすぐに気づいたようだった。
「何だ、おまえ。また秋口と何かあったのか」
「ないない」
 佐山は御幸に片手を振って見せて、無理矢理料理を口に詰め込んだ。
「ん、噂をすれば」
 疑わしそうに佐山を見ていた御幸が、その後ろの方に視線を向けて呟いた。佐山もさり気ないふうを装ってこっそり振り返ってみる。
 食券売り場からチケットを取り出した秋口が、カウンタに向けて歩き出すところだった。相変わらず周りに数人女子社員を侍らせている。その様子を見るのがいまいち心臓によくない気がして、佐山はすぐに前を向こうと思ったが、その瞬間急に秋口と目が合った。佐山たちの座っている席からカウンタの辺りは大分距離があるのに、視線がかち合ってしまった。
 佐山は慌てて顔を元に戻し、箸を持ち直す。一連の佐山の様子を見ていただろう御幸は、特に何を言うこともなく食事を終えた。
 そのまま御幸と非常用の外階段に移動して煙草を吸った。食堂は八月から禁煙になってしまったし、休憩所はどこも混んでいる。今日は佐山も御幸も仕事はのんびりペースでよかったから、ついそのまま話し込んでしまった。
「佐山は夏休み、九月入ってからって言ってたよな」
「そう、有給も使って、結構たっぷり」
「埼玉戻るのか?」
「そうだな、そろそろ顔出さないと、心配させてるみたいだし」
「まあ心配するだろうな、おまえがゴミに埋もれて死んでやしないかと……」
 御幸の言葉に佐山は苦笑した。もっともな言い分だ。
「俺もその辺りに休みだからさ」
 御幸は吸い殻を一度踊り場に捨ててから、靴底で踏んで火を消し、それを屈んで拾い上げた。立ち上がってから佐山をまた見遣る。
「もし車いるような用事あったら、遠慮しないで声掛けろよ」
「……そうだな、ありがとう」
 御幸の気遣った言い回しに感謝しつつ、佐山は頷いた。
「ついでにドライブでもしようぜ、最近全然走りに行ってないからストレス溜まる」
 御幸は車道楽のきらいがあって、暇があれば愛車で遠出するのが趣味だ。運転は安全だったから、車に酔いやすい佐山も御幸となら一緒に出かけるのが苦痛ではない。
「いいな、じゃあ休みになったら」
「バケットのサンドイッチと鶏からもバスケットに詰めて」
 料理も御幸の趣味のひとつだった。御幸が佐山の家を掃除しに来る時、手作りの夕食もついてくるのだからまったくありがたい。
「マメだなあ。楽しみにしてるよ」
「じゃ、俺先戻るわ」
 御幸が非常口から建物の中に戻っていった。佐山も吸いかけの煙草を吸いきると、生温い風の吹く外から空調の効いたビルに入った。
 涼しさに安堵の吐息を洩らしながら腕時計を見ると、昼休みの時間がもう終わっている。少しゆっくりしすぎてしまったことを反省しつつ、開発課に向かって廊下を進みかけた佐山は、その先にまだ御幸の姿があることに気づいた。あまり時間の差がなかったから追いついたようだ。
 御幸は廊下の曲がり角で誰かと話している。相手は廊下の角の影になって見えなかったが、何の気なくそちらへ向かって歩いていた佐山は、御幸と入れ違いのようにこちらへやってくるのが秋口だと気づいて、急激な嬉しさが湧き上がってくるのを堪えなくてはならなかった。
(笑うなよ、顔)
 感情を剥き出しにすることを、佐山はここのところ意識して我慢している。
 佐山の方を見て、秋口が軽く頷くように挨拶する。佐山も少しだけ微笑んでそれに応えた。秋口は今週も忙しいらしいから、このまま通り過ぎてしまおうと思った佐山は、秋口が自分の前に立ちはだかったので自然と足を留めた。
「御幸さんと、煙草?」
 訊ねられて、頷く。
「そう、ちょっと長居しすぎた。そっちの外にいたんだけど、暑くて――」
「汗かいてる」
 額にうっすら浮かぶ汗を秋口に見られ、佐山は何となく恥じ入って手の甲でその辺りを押さえた。
「食堂が駄目になったからな。日増しに喫煙者の肩身が狭くなってくるよ」
「こっちでも、吸えますよ」
 秋口が視線で自分の後ろを指し、つられてそちらを見遣った佐山は、すぐに相手の言わんとすることを察した。秋口の視線の向こうにあるのは、いつもの資材倉庫。踵を返して歩き出した秋口は、佐山がついてこないなんて思ってもいないような足取りだった。佐山は秋口の踵を見ながら歩き出す。なぜか餌をちらつかされて言うことを聞く、躾のいい犬に自分がなった気がした。
(俺と、秋口が、どういう関係なんだろうな……とか)
 期待と、逆のベクトルの感情が、同じくらい大きく膨らんでいる。
(訊かない方がいいんだろうなあ)
 その辺りをはっきりさせる気なら、秋口はとっくにそれについて言葉にしているだろう。
 多分もう嫌われてはいないはずだ。以前みたいなとげとげしさは、もう秋口には塵ほども見あたらない。その代わり愛想は減った。嫌味を言ったり厳しく当たることはない代わりに、言葉数が少なくなって、笑うこともあまりなくなった気がする。自分も一緒だ。嬉しい気分と緊張と疑問が渦になって、時々自分勝手に疲れる。
 だからこうして誘われる方が楽だった。触れてる間はそれだけに気持ちを傾けていいと自分で決めたから。
 さり気なく周囲に人目のないことを確認してから、佐山は秋口に続いて資材倉庫の中に身を滑らせた。秋口が中からドアを閉め、続いて鍵の閉まる音が聞こえて佐山は少し驚いた。いつもはドアを閉めるだけで、佐山がそれに寄り掛かり、外から開かないよう一応警戒はしていたのだが。
 驚いた顔の佐山と視線が合って、秋口が小さく首を傾げた。
「ドア、壊れてるんだよな」
 聞こうと思ったことと、微妙にずれたことを佐山は口にした。
「細かいところでけちってますよね、この会社」
 そうだな、と受け合いながら、佐山はポケットから煙草を取り出した。
「本当に吸うんだ」
 一本口に咥えようとした動きを、少しおかしそうな秋口の声で佐山は止める。
「いや、こっちでも吸える、って……」
 言い訳がましく佐山がもそもそと答えるうち、秋口の指先がそのこめかみ辺りに伸びた。佐山は咄嗟に身を引いて、その指から逃げてしまった。
 秋口が微かに眉根を寄せる。
「汗かいてるから」
 佐山の台詞はまた言い訳じみた響きになった。
「前と同じくらいでしょ」
 秋口はさらに腕を伸ばして、手の甲で佐山のこめかみに触れた。
「前、って?」
 じりじり後退さったら、すぐ背中に何かが当たって揺れた。資料なのかゴミなのかわからない紙束が収められたスチール棚だ。
「俺が、佐山さんち行った時くらい」
 答えながら、秋口が佐山の方へ身を寄せ、唇ではなく手で触れた方と逆のこめかみに唇で触れた。
「一緒に寝た時、結構汗ばんでた」
「……覚えてない」
「酔っ払いでしたから」
 その時のことを秋口が蒸し返したのは、先週の月曜――初めてキスをされた時以来だ。
 とりあえず秋口と距離を取りたくて、佐山は横に逃れようとしたが、棚についた秋口の片手ひとつでそれを阻まれてしまった。
「煙草臭い」
 秋口は唇を佐山のこめかみから頬の方へ移動させつつ、呟いた。
「さっきまで吸ってたんだ」
 佐山は手に取ったままの煙草を持て余している。右手で箱を、その指に一本だけ取り出した煙草が所在なげに引っかかっている。
 いっそするならさっさとしてくれと、佐山は少しやけくそ気味に顔を傾けた。秋口の唇を捜しながら目を閉じる。その動きを読んでいたように、秋口からも唇を合わせて来た。
(単に、おもしろがられてるだけなのかも)
 一番考えたくない理由が頭に浮かんでしまい、佐山はそれを追い出して、秋口とのキスに集中しようとした。好意、同情、成り行き、興味、揶揄、それ以外。どれにしろ、自分が邪推したって、たとえ秋口の口から聞いたって、真実なんかそうそう簡単にわかるもんでもないだろう、と佐山は全部頭から追い出した。
 秋口はすぐに佐山の唇に舌を割り入れてきた。煙草臭くて申し訳ないと思いつつ、佐山は秋口の動きに応える。大学の頃つき合っていた女の子は、佐山が煙草を吸うのを嫌った。その一時期気を遣って禁煙していたが、別れた後反動のように煙草の量が増えてしまった。
『あたしのこと好きだったら、煙草くらいやめられるでしょ』
 つきあい始めてすぐそう言った彼女の顔はもうあまり思い出せないのに、その声や言葉のトーンだけやけに覚えている。あの頃はまだそれほど禁煙禁煙と世間では騒がれていなかった。飛行機でも普通に煙草が吸えた。
(って、何でこんなこと考えてるんだ)
 余計なことを考えないようにしたら、関係ない思い出が蘇ってしまった。
 秋口も煙草を吸っているはずだが、佐山ほど量が多いわけじゃないようだった。一緒に食事をしていると、秋口は酒を飲み、その間の分佐山が煙草を吸っている。それでも秋口の体からも微かに煙草の匂いがした。
 そういえば煙草を吸う相手とキスしたのは初めてなんだ。佐山は今さらそんなことに思い至った。それ以前に男とキスしたのも初めてだったから、気にしていなかった。
 そんなことを考えつつも、佐山は熱心に秋口とのキスの感触を味わった。深く接吻けをする場合、今までは男の自分からリードすることがほとんどだったから、積極的に口中を犯される感じは新鮮で、刺激的だった。
(んっ)
 声には出さず、佐山はただ眉を顰めた。秋口に深く口蓋を探られ背中が震える。今日はもうずいぶん長い時間触れ合っている。秋口の指は少し長い佐山の髪を掻き上げるように耳許で動いていて、それがくすぐったい。その指がそのまま耳の裏に流れ、首筋を撫で下ろした時、佐山は隠しようもないくらい大きく肩を揺らしてしまった。スチール棚が壁にぶつかる音が聞こえて、少し気まずくなった。
 ――感じたのが、ばれてしまう。
 もうそろそろいいだろう、と佐山は煙草を持った手で秋口の胸を押し遣ろうとした。だが相手の体はびくともしない。
「……きぐち」
 名前を呼んで、失敗した。すっかり息が上がってしまっていた。
「もう、戻らないと」
 何とか抑揚を抑えて言った佐山の声は、終わりの方を秋口の唇に吸い取られた。先刻より強く舌を吸われ、唇を食まれて、佐山は段々怖くなってきた。
(これ以上は)
 まずいんじゃないだろうか、と思う。秋口の片手は佐山の腰骨の上に置かれ、少しずつ掌が動き出している。佐山はそれにいちいち震えてしまうのだ。秋口は明らかに意図的に掌を動かしている。
 だがやっぱり、止めるのは勿体ないんじゃないか、などとも佐山は考えてしまう。かといって自分から積極的に応えるのもどうなのかと迷っているうち、秋口の唇が離れ、次には首に濡れた感触が当たった。
「っ、……」
 首筋に軽く歯を立てられ、同時に、腰の辺りをさまよっていた掌が前に回ってきた。佐山は咄嗟に両手でもう一度秋口の胸を押した。
「動かないで」
 びくともしない秋口に、何か言わなくてはと口を開いた佐山は、一言先に言われただけで身動き取れなくなった。下肢の間、ズボンの布越しに秋口の掌が触れて、佐山はきつく目を閉じた。これで秋口にも、自分が完全に快楽を覚えていることがわかってしまっただろう。『もう戻らないと』なんて理性的な声で言おうとしながら、佐山の中心は熱を持って昂ぶりかけている。
 秋口はその昂ぶりをたしかめるようにしばらく掌を動かすと、それをやんわり上から握った。佐山は咄嗟に歯を喰い縛って快楽に耐えた。声を洩らさないよう必死に唇を閉じる。しかし秋口が休まずその辺りを揉みしだくから、いつの間にか閉じていたつもりの唇が開き、浅い呼吸を繰り返していた。
「あ、秋口……ちょっと、これ以上は」
「シッ」
 佐山の弱音を一言で押さえ込み、秋口は開いている手で佐山のベルトに触れた。
(本当に、まずい……)
 秋口は何なく佐山のベルトを外し、ズボンのボタンも外し、ジッパーも下ろしてしまった。
「もう、いいって、秋口」
 囁くような、半泣きのような佐山の声を、秋口は頭っから無視した。
 勿体ぶったほどゆっくりとした動きで、秋口の手が下着の中に忍び込んでくる。すぐに佐山の熱の在処を探り当て、今度は直接掌で握り込んだ。
「……ッ……」
 身を強張らせて、それでも佐山は言われたとおり動かずにいた。秋口の言葉は呪文のように佐山をその場に縫いつけた。
 少しの間秋口の掌は佐山の中心を優しく揉んで、次第にそれが固くなって来た頃、弄ぶように上下に揺らし出した。息と声を殺して、佐山は煙草の箱を握り潰してしまった。
 顕著すぎる自分の反応が情けない。秋口は特別技巧をこらしているわけでもなく、ただ佐山の性器を擦っているだけだ。ときおり指先で先端を押された。それで佐山はもう腰砕けになっている。
 秋口に中心を握られ、必死に我慢しようとした努力も虚しく、佐山はその掌に精液を吐き出してしまった。
「……」
 呆然と、佐山は目を閉じたままスチール棚に寄り掛かった。瞼を下ろしていたが、秋口が自分の顔を覗き込んでいるのがわかった。
 顔を見られて、荒い呼吸を聞かれて、堪えきれずに秋口の手の中で射精した。
 佐山は何だかその場にしゃがみ込みたいほど衝撃を受けていたが、秋口が体を支えていたのでそうもいかなかった。秋口はポケットから取り出したハンカチで自分の手を拭い、佐山の性器を拭い、服を整えてくれた。
「ちょっと……濡れたかな、すみません」
 ベルトまで填めた後に聞こえた秋口の呟きに、佐山は暴れて喚いてこの場から逃げ出したい気分を全力で押し殺し、代わりに小さく溜息を吐いた。
「……仕事、戻れよ。先行ってくれ」
 秋口の手でイカされてしまった、という事態に頭が追いつかず、とにかくひとりになりたくて、佐山はそう言った。
「……」
 秋口は何も言わず、ただ佐山をじっと見ている気配だけがした。
 佐山がしばらく動かずにいると、そのうち秋口の気配が前から消えて、鍵が開く音が聞こえた。何も言わずに秋口が倉庫を出て行く。
 佐山はまたすっかり汗ばんでしまった額を手の甲で拭い、大きく息を吐き出した。
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