こころなんてしりもしないで・第7話

 秋口が自分の仕事が終わる時間だけを件名もなく携帯メールで送れば、佐山が「了解」とひとこと返して、それで夜の約束は決まる。仕事の予定で無理な時は「今日は残業」とかやっぱり件名もなく短い返事を送ったが、その返事が来たことはなくて、たかがそれだけのことに佐山は落ち込んだ。次はもう誘われないのではとか、そういう不安ばっかりがうっすらと胸を翳らせていて、そんな自分に気づいては余計に落ち込んでしまう。
(何とかなんないもんかな)
 自分の気持ちにどうにか収拾がつけられれば、これほどいいことはないと思うのだ。あやふやな関係なんて本当は好きじゃない。恋愛の駆け引きをしたがる性格でもなかったし、好きな相手には優しくしたかったし、されたかった。
 遊びで体の関係が持てるほど器用じゃないとわかっているから、こういうのはよくないと思いながらも、佐山は気づけばもう片手で足りないほど秋口とキスよりもっと深い行為に及んでいる。
 会社で、というのがどうも後ろめたいし、仕事の時間が削られるのもいただけなかったので、佐山は秋口にそう言った。『部屋、掃除しとくから』と婉曲な言い回しだったが、秋口にはすぐに通じたようだった。
 それからは夜待ち合わせても、ゆっくり気に入りの店で食事をすることはなく、できあいの総菜を買ってふたりで佐山の家に行って、最初に佐山がシャワーを浴びている間に秋口が食事をすませ、秋口がシャワーを浴びている間に佐山が食事をすませ、少し濡れた体にタオルを巻いて風呂から出てきた秋口が、まだ髪も乾いていない佐山をベッドに誘って――という、色気があるような、ないような、佐山を妙な気分にさせる手順がすぐにできあがった。
 もう一方的に秋口が佐山に触れるだけではなく、佐山の方も秋口の体に触れるようになった。
 秋口に触れられるたび、いつでもちょっとずつ罪悪感のようなものが胸を占めていて、『せめて秋口にも気持ちいい思いをして欲しい』という気持ちが佐山の愛撫を熱心にさせた。
 罪悪感というより、引け目に近いだろうということは自分でもわかっていた。秋口は好んで自分みたいにガリガリに痩せた男を選ばなくても、気が向けば簡単に柔らかい女性の体を抱くことができるのだ。
 だからといって自分から機会を手放してしまうほど無欲ではないから、佐山はせめて秋口に気持ちのいい思いをさせてやりたいと、それなりに積極的に秋口に触れる。
 クーラーの風に裸を晒して、佐山はベッドに座る秋口の胸先へ舌を這わせた。秋口の呼吸が乱れるのを嬉しいと感じる。部屋の明かりはいつも佐山が消した。秋口の裸を正気で見られそうもないし、自分のことを見て欲しくもなかった。どうせ暗がりでよく見えないから眼鏡も外した。裸眼で暗闇に秋口の肌を捜してする行為は、いつも佐山を妙な気分にさせた。夢みたいな、やけに現実的な、そういう感覚が曖昧な境界線を気軽に踏み越えて交互にやってくる。
 まさか自分が年下の男のペニスを進んで口に含む時がやってくるなんて、ちょっと前まで想像もできなかったのだ。
 一番最初に佐山から秋口に触れた時、秋口は少し驚いたように動きを止めたが、すぐにそれを受け入れた。キスをしながら秋口の掌に性器を包まれ、自分だけそうされるのに耐えられない佐山はあまり迷うこともなく同じ動きを相手に返した。最初はお互い手で射精を導くだけだったのに、先に舌や口を使うようになったのは佐山の方だ。
「……ん……」
 低く呻く秋口の声を聞きながら、佐山は両手で支えた秋口の中心を唇に含み、先端を舌で嬲った。自分はもう秋口にそうされて、絶頂を味わった後だ。気怠い体を持て余しながら、秋口がしたように、胸や首筋や脇腹を丹念に愛撫しながら片手を下肢の間に伸ばし、扱いて、口に含む。
 自分の手の中で固くなり、口中で熱を増す秋口に、佐山は気持ちを昂揚させた。ただその熱のことだけを考えて、夢中で手や舌を動かした。
「……ッ、もう、出る」
 吐息を乱しながら、切れ切れに秋口が言って、佐山の頭を自分から離させた。引き寄せておいたボックスティッシュを数枚抜いて、つい今まで佐山の口中に収められていた場所に当てている。小さく身震いしながら射精する秋口から、佐山は今日も何となく目を逸らした。見たくなかったわけじゃなくて、見たいことが相手にばれてしまうのが気まずかったのだ。
 秋口はさらに数枚ティッシュを抜き出して、佐山の方に差し出した。視界を掠ったぼんやり白いものを佐山は受け取り、それで濡れた口許を拭う。
 仕事が終わって一緒に会社を出て、家に入るまで、入ってからも、必要最低限の言葉しか交わさず、この状態だ。
 最近はずっとこうだよな、と佐山は舌先に残る苦い味を指先で擦りながら考えた。
 何でこんなことになったんだっけ、とも。
(何て言うんだっけ、こういうの――下世話な言い方で)
 思い出そうと努力しながら、佐山はベッドのサイドテーブルの上に置かれた煙草を手に取った。ほぼ無意識の動きで、咥えた煙草に火をつける。ライターの火が一瞬、佐山の部屋の中を浮かび上がらせた。掃除をしておくから、と秋口に告げつつ、結局あちこち散らばった荷物をまとめて終わった。
 どうせベッドしかまともに使わないんだからいいか、とぼんやり思いながら、佐山はさっき浮かべた疑問の答えを思い出した。
(『相互オナニー』だ)
 まったく下世話な表現だが、言い得て妙だと納得する。どこでこんな言葉を覚えたんだっけ、とついでに考えたが、これはどうしても思い出せなかった。きっと学生時代に悪友が見せてくれた類の雑誌だろう。
 前回ことが終わった後に思いついた言葉は『セフレ』だが、別にセックスしているわけでもない気がするので、しっくりこなかったのだ。これですっきりした、と煙草を吸いながら、それにしたって自分はどうしてこんなバカみたいな下らないことを真剣に考えているのかと、佐山はおかしくなった。
 秋口は何も喋らないし、佐山も口を噤んでいるから、思考ばかりが進んで嫌になる。
「一本、もらえますか」
 どうやらベッドの上にあぐらをかいているらしい秋口が、ふとそう声を出した。
「どうぞ」
 ベッドとくっついた壁に寄り掛かりながら、佐山は煙草とライターを一緒にして秋口の方に投げ 、灰皿をサイドテーブルからベッドの上に移動させた。
 煙草を吸っていた秋口がまた不意に小さくくしゃみを洩らして、その様子が妙に可愛らしかったので佐山はひっそりと笑いながら、床から拾い上げたリモコンで冷房を少し弱めた。
「毎日暑いな」
 リモコンをベッドに投げ出してから壁に寄り掛かり直し、佐山はそう言った。
「雨も全然降りませんよね」
 佐山のつまらない言葉に秋口がつまらない言葉を返して、会話はそこでもう途切れてしまった。
 煙草を一本吸いきると、秋口はベッドから起き出して風呂場に向かった。秋口が身支度を調えている間に、佐山も洗いっぱなしで畳まれもせず積み重なった洗濯物から適当にシャツやパンツを取り出して身につけた。
 部屋に戻ってきた秋口が、自分の鞄を拾う。そのまま玄関に進む秋口の後について、佐山もドアの方に向かった。
「じゃあ、おやすみなさい」
 靴を履いた秋口が、佐山の方を振り返りもせず、でも冷たくもない口調でそう告げる。
「おやすみ、気をつけて」
 振り返った秋口が、一瞬だけ佐山に視線を向けて、すぐに外に出て行った。閉じたドアの鍵を閉め、佐山はそのまま生温い鉄のドアに額を押しつけた。
(――で)
 秋口が帰った後の虚しさを、必死にやり過ごそうとする。悲しくも辛くもないのに、秋口がいなくなった後は何だか急激に疲れた。
(何でこうなったんだっけ?)
 別に望んだことなんてひとつもない。望まないようにしていた。声が聞きたいとか自分を見て欲しいとか、触れて欲しいなんて思ったこともなかった。
 それでも他愛ない会話を交わしながら美味い食事をとって、笑って、それが嬉しかったから一緒にいられる時間を自分から手放す気なんて毛頭起きなかったけれど。
 キスされて、触れられて、勘違いしないように自分を戒めていた頃だって、まだ倖せだったと思えるくらいだ。
 秋口が部屋に訪れるようになってから、世間話すら数えるほどしかしていない。秋口は何も言わないし佐山は何も聞かない。なのにお互い相手に快楽を与えるために熱心になっていたりする。
 自分で決めた約束どおり、秋口と触れ合っている間は、その感触だけ夢中になって佐山は追った。
 どうせ今、それを自分から手放せる余裕も度胸もない。こんな状況が本当に虚しいと思いながらも。
(何考えてるのだけでもいいから、聞きたい)
 でも聞けない。聞いたら全部終わるだろうという予感はずっと持ち続けている。
(こんな形でも一緒にいたいわけだ)
 触れるごとに執着心が募る気がして、佐山には少し怖かった。
 こんなことが長く続くはずがないと、どうせいつか終わりが来ることは覚悟しているのに、会う回数が増えるたびにその『いつか』が近づくことが怖くなった。
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