こころなんてしりもしないで・第8話

 九月に入ると、佐山は三日間だけ夏休みを取った。御幸は土日と有給を利用してもっと長い休みを取るよう主張したが、仕事が詰まっていることを理由に、佐山は結局短い休みだけを手に入れた。
 暦の上ではもう秋とはいえ、まだ陽射しも厳しく蒸し暑い平日の午後、佐山はやかましく鳴く蝉の声を聞きながら、ひとつの建物の中にいた。
 窓から見える景色はひどく牧歌的だ。畑があって、森がある。水のせせらぎも聞こえた。近くに川があるのだ。空はよく晴れ渡っていて、真っ青な色の中にぽっかりと白い雲が浮かんでいる。東京では到底お目にかかれない景色だった。
「あら、佐山さん、こんにちは」
 廊下を通り掛かった白衣姿の女性看護師が、窓の外を眺めながらゆっくり廊下を進む佐山の姿をみとめ、そう声をかけてきた。佐山はその年配の看護師に小さく頭を下げる。
「こんにちは。暑いですね」
「でも東京に較べればずいぶん過ごしやすいでしょう。夏バテしてらっしゃるんじゃないの、少し顔色がお悪いわ」
 優しい口調で言いながら、看護師が軽く首を傾げる。いえ、と佐山は曖昧に笑って済ませた。それから看護師の向こう、廊下の先へと視線を移す。
「今日は、具合がいいと電話でうかがったものですから」
「そうですね、ここのところだいぶいいみたいだから、お会いになっていかれたらいいと思いますよ。先生に許可をもらって下さいね」
 看護婦に頭を下げ、佐山は再び廊下を歩き出した。
 受付に寄り、もう長い間世話になっている医者と少し話をして、手続きをした後に、佐山は医者と一緒に入院病棟へと向かった。
 歩きながら、佐山は少しずつ緊張していく。いつでもそうだ。この場所に訪れるたび。
『佐山治子』とプレートのかかったドアの前で、ふたり同時に立ち止まる。医者が先にその病室のドアをノックして、開いた。
「こんにちは、佐山さん、お客さんですよ」
 さほど広くはない病室の窓際に白いベッド。体を起こして背中をベッドヘッドに凭れた浴衣姿の女性が、ゆっくりと振り返り、佐山の姿を見つけると目許に皺を寄せて微笑んだ。
「まあ……今日は来てくれると思ったのよ、夢が当たったわ」
「夢を見たの?」
 微笑み返しながら、佐山はゆっくりベッドの方へ近づいた。医者は入口のところで待っている。佐山はベッドの側にある椅子へと腰を下ろした。治子の枯れ枝のように細い腕が伸びてきて、佐山の右手に触れる。その軽さに胸を痛めながら、佐山はもう一度彼女に笑い返した。
「ええ、今日はとても気分がいいし、きっといいことがあるって信じてたの」
 治子が少女のようなはにかむ口調で言った。
「こんな格好で、ごめんなさいね。髪も梳いていないし……」
「病気なんだから、仕方ないよ。窓を開けていて大丈夫ですか。暑くはない?」
「夏は好きだもの。あら、今日は翼《つばさ》は一緒じゃないの?」
 彼女の顔が見られず、点滴の針の刺さった細い腕を見られず、結局窓の外へと視線を向けた佐山は、緩い風に身を揺らす青い稲穂を眺めたまま少し動きを止めた。
「今日は、留守番」
 一度息を吸い込んでから、声が強張らないように、掠れないように、精一杯優しい口調でそう告げる。
 そう、と治子は残念そうに俯いた。
「あの子には寂しい思いをさせるわね。ねえあなた、翼のことお願いね。母親のわたしがいなくって、きっとひとりで泣いているわ。だからなるべく一緒にいてあげてね。ねえお父さん」
 悲しげに懇願する彼女の掌を、佐山は安心させるように優しく握った。
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