こころなんてしりもしないで・第8話

 夏休み明けの金曜日に一度出社すると、土曜日は午後から仕事をして、日曜日は休み、といささか中途半端なスケジュールになった。土曜日、秋口の出社予定はなかったようで、また二日間、佐山は彼に会うことができなかった。
 月曜日の朝、佐山は秋口とまた直接顔を合わせるか、それともメールでとりあえず会って話がしたいということだけ伝えてみるかと迷いながら、結局そのどちらもできずに午前中の業務を終えた。
 昼食を摂って午後、迷ってばかりの頭ではいまいち仕事がはかどらず、顔を洗って飲み物でも買って来るかと席を立ち、廊下に出る。
 煙草が吸いたかったので休憩所に向かったが、数人の女子社員たちが場を占拠して煙を吐き出していたので、中に入っていくのが憚られた。自分も喫煙者ではありつつ、集団で煙草を吸う女性というのが佐山はどうも苦手だった。飲み物だけ買って外で一服するかと、他の課、顔見知りではない四、五人の女子社員の邪魔にならないように佐山は休憩所に入り、飲み物の自動販売機の前に立った。
「えー、じゃあ金曜、マジであんた秋口さんとあのまま一緒だったわけ?」
 小銭がみつからず、千円札を自販機に入れた時、後ろの女子社員から聞こえた言葉に佐山は思わず動きを止めた。
 すぐに小さく悲鳴のような笑い声が上がる。彼女たちは別の男性社員が現れたことには気づいて、声を少しひそめはしたものの、話すことをやめようとはしなかった。
「うっそ、やったじゃん、最近秋口さんつき合い悪くて声かけても全然遊びに連れてってくれなかったのに。何か口惜《くや》しー」
 紙幣を受け入れ、商品を選ぶよう自販機のボタンが点灯する。ぽつんと赤い光を眺めながら、佐山はそのボタンのひとつを押した。
(あれ、コーヒーだな、これ)
 ボタンを押してから、佐山は自分が飲めないものを選んでしまったことに気づいた。
(せめてミルクを入れればよかった)
 後悔しても遅い。紙カップはもう下りてきて、注ぎ口からは琥珀色の液体が流れ落ちている。
「で? 次の日休みだったんだから当然」
 からかうような、探るような女の声。別に今すぐこの場を立ち去ったってよかったのに、佐山は(まだコーヒーが入り終わっていない)と、自分が飲めもしない飲み物が出てくるのを馬鹿正直に待っている。
 小さく、別の女の含み笑いが聞こえた。
「あたりまえ。ホテルご一泊コースに決まってるでしょ」
「ずるーい、今度あたしも誘ってみよ、あんたでオッケーならあたしだって行けるよ」
「うわムカつく、何だその言い種」
「でもそしたらこの辺みんな姉妹になっちゃうんじゃない?」
「え、そんなの今さらだって」
 取り出し可能の電子音が短く響き、次におつりの小銭が落ちてくる音。先に小銭を拾ってしまおうと身を屈め、取り出し口に指先を入れるが、強張っていて上手く動かない。しまった、と思った時には、床へ小銭を散らしてしまった。
「あれ、大丈夫ですか」
 音に気づいて振り返った女子社員が、佐山の姿を見て咄嗟にばつの悪そうな顔になった。「開発課の」「秋口さんと仲のいい」とひそひそ耳打ちしあう声を聞きながら、佐山は「秋口と仲なんかよかったっけ?」と疑問を浮かべ、落ちた小銭を拾った。
「はい、こっちにも落ちてましたよ」
「ありがとう」
 小銭をいくつか拾ってくれた女子社員は、礼を言った佐山の顔を上目遣いに見上げると、いたずらっぽい口調で囁いてきた。
「こんなとこで秋口さんのこと話してたって、内緒にしておいて下さいね」
 本当に困っている様子もなくそう告げる彼女に、佐山は心得たような笑いを返し、コーヒーカップを取り出すと休憩所を離れた。
 歩きながら、妙に大きく鳴っている心臓を持て余す。何もしていないのに視界が揺れているようで気持ちが悪い。固い床が柔らかく波打っているようにも思えた。
 その場にしゃがみ込んでしまいたい体をどうにか動かし、非常口から建物の外へと出て行く。狭い外階段の踊り場には誰もいない。ドアを閉めると、佐山はその鉄扉に背中で凭れ、目を閉じた。
(別に)
 落ち着こうと吸った息が震えているのが自分でわかった。
(約束があったわけじゃないし)
 悲しいでも腹が立つでもなく、ただ、立っているのも辛いほどに心を重い鉛で押さえつけられてしまったような感じだった。
(そもそもあの秋口が、俺以外と何もしないなんて思う方がどうかしてたわけだし)
 どうしてここ最近の自分が、そんな可能性にすら思い至っていなかったのか、その方が不思議だった。もしかしたらあえて考えないようにしていたのかもしれないと自分で気づく。
(そんなこと承知の上で、秋口のこと好きになったんだろ)
 好きな心が止められず、諦めようとしていたのにそれもできずに、何度も秋口と会って、何度も――
(でもせめて、俺の耳に届かないところであって欲しかった)
 多分それは自分にとって贅沢な願いだったんだろうと、佐山はぼんやり笑いを浮かべながら、手に持ったままのコーヒーに口をつけた。
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