こころなんてしりもしないで・第8話

 八時過ぎに仕事が終わる、と秋口からメールが来たのは、長い休憩を佐山が非常階段で過ごし、ようやく自分のデスクに戻ってきた時だった。
「……」
 携帯電話の液晶画面を、佐山はうつろな気分で眺める。
(何でだろう)
 秋口の気に入られようと必死になる、綺麗な女の子たちは他に山ほどいるのに、どうして秋口は今日も自分にこんなメールを送ってくるのか。
(まあ、俺が責める筋合いじゃないか)
 むしろ、誘ってくれるのを喜ぶべきなのだと思う。どっちにしたって自分はまだ秋口が好きだ。他の人と会う代わりにでも自分を選んでくれるのなら、少なくともその間だけは、秋口は他の誰かと一緒にいることはない。
 そう頭ではわかっていても、メールを見て純粋に喜べることなんてなく、佐山はそのまま携帯電話を閉じてしまった。
 今日はまったく仕事が進んでいない。これではいけないと、佐山は手許の作業に頭を集中させるため図面を眺めた。仕事に没頭すれば余計なことを考えずにすむ。だが、休憩の後から胃の辺りが痛んで、落ち着いて椅子に座っていることも難しかった。医者にも止められているコーヒーを、しかもブラックで一杯綺麗に飲み干してしまったのだ。
 こんな時に限って、常備していたはずの胃薬が切れている。残業をしなくてはならないと思っていたのに、この体調では仕方がない。佐山は定時のチャイムが鳴る少し前に席を立って、医務室へ向かおうと廊下に出た。
「佐山さん」
 胃の上を無意識に手で押さえて廊下を歩いていると、後ろから声をかけられた。その聞き覚えのある声に、佐山は身の竦む思いで立ち止まる。態度に出さないよう、咄嗟に自分に言い聞かせながら振り返った。
「――顔色悪いですけど、具合でも?」
 振り向いた佐山を見て、秋口がかすかに表情を曇らせた。佐山は苦笑気味に首を横に振ってみせる。いろいろ説明するのが面倒だった。
「大したことないんだ」
「そういう様子にも見えませんけど……」
 話を早く打ち切りたくて、佐山は無理に笑顔を浮かべた。秋口は当惑した表情になったが、それ以上は何も言わなかった。代わりに、本来の用件であるらしいことを訊ねてくる。
「メール、届きませんでしたか」
「ああ……ごめん、忙しくて。今日は駄目だ、ごめん」
 考えるより先にそう答えてから、佐山はそれが当てつけのように聞こえはしないかと背筋を冷やした。だがすぐに、秋口は自分が先刻の彼女たちの会話を聞いたことは知らないし、それにそう思われても別段どうでもいいかと考えるのをやめた。
「佐山さん、本当に具合が悪いんじゃないですか?」
 曖昧な笑顔を浮かべ、腹を押さえたままの佐山に、秋口はますます眉根を寄せ、顔を覗き込んできた。
 近づいて来た秋口から、微かに嗅ぎ慣れた匂いがする。煙草とか、整髪料とか、そして体温とか、それを間近に感じて、佐山は逃げ出したくなる。
 この感触を、あの休憩所にいた彼女たちが、その他の女の子たちが、自分と同じように味わったのだと思うと、逃げ出したいのに身動きも取れないくらい体が強張った。
「佐山さん」
 口許を掌で押さえる佐山に、秋口が驚いて肩を支えようと手を伸ばしてきた。
 反射的に、佐山はその手を反対の手で押し退けた。驚いた顔になる秋口を見ていられず、佐山は俯いた。
「ごめん、ちょっと、吐き気がして……」
「医務室に行きますか」
「大丈夫、ひとりで行ける」
 一緒に歩き出そうとする秋口を言葉で制し、佐山はよろめきそうな足許を叱咤して歩き出した。
 秋口は何も言わなかったが、気懸かりそうな視線を佐山は自分の背に感じた。だが振り返らず、とにかく秋口の目に届かないところへ行こうと、早足で廊下を進んだ。
 医務室は違うフロアの片隅にある。覚束ない足取りで階段を下り、医務室目指して廊下を進んでいると、次には別の声が聞こえた。
「佐山さん」
 今度は誰だ、と俯きがちだった顔を上げると、書類を抱え、驚いた顔をしている沙和子の姿が佐山の目に映った。
 医務室があるフロアには、彼女のいる総務部もあったことを佐山は思い出す。
「どうしたの、大丈夫。ひどい顔色よ」
 沙和子はすぐに駆け寄ってくると、佐山の腕に細い手を置き、心配げに顔を覗き込んできた。それからポケットを探ってハンカチを取り出し、脂汗の浮かぶ佐山の額をそっと拭った。
「医務室へ行くのね。歩ける?」
「大丈夫、ひとりで行けるから」
「駄目、すぐそこだから、一緒に行くわ」
 佐山の言葉に聞く耳を持たず、沙和子は佐山の体を支えて歩き出した。医務室までゆっくり進むと、沙和子が自分のIDカードでドアを開け、佐山と一緒に中へ入った。仮眠用のベッドとソファ、薬の置かれた棚があるだけの部屋には誰もいない。医務室といっても簡素なものだ。
「また胃が痛むの?」
 とりあえず佐山をソファに座らせながら、沙和子がそう訊ねてくる。彼女とつき合っていた頃もこんなことがあった。佐山はそう思い出しながら苦笑いを浮かべ、頷く。
「コーヒー、飲んじゃって」
「飲んだら駄目って言われてるのに。無理しないで」
 困った顔で言ってから、沙和子が薬品棚に向かい、胃薬を一包み取り出した。薬を佐山に渡すと、一度医務室を出て行ってから、すぐにミネラルウォーターを手に戻ってくる。
「ありがとう」
 ありがたく、佐山は沙和子のくれた水で胃薬を飲み下し、ソファに深く凭れた。
 沙和子が佐山の隣へ腰を下ろす。
「ごめん、沙和――雛川さんも、仕事中だろ。大丈夫だから戻っていいよ」
「急ぎの仕事はないから、平気」
 答えてから、沙和子が小さく笑った。
「『沙和子』でいいのに」
「君を好きな人に悪いよ」
「いないわ」
 沙和子は膝の上で指を組み、その指に視線を落として小さな声で言った。
「とっくに別れて、今は誰もいない」
「……」
 どう答えていいのかわからず、佐山は黙り込んだ。沙和子も口を閉ざした。しばらくふたりして黙っていると、薬のお陰で少しずつ胃の痛みがひいてきて、佐山はほっと細い息を吐いた。
 そのタイミングで、沙和子がまた口を開く。
「久しぶりね、ふたりでゆっくり話すの」
「そうか……そうだな」
 別れてから数年、おそらく沙和子の方から佐山を避けていて、ふたりきりになることも、落ち着いて言葉を交わすこともなかった。
 長い時間空白があるのに、思いのほか自然と彼女と話せるのが佐山には不思議だった。
「ずっと話したい、話したいって思ってたけど、何て言うか……気がひけて、なかなか声がかけられなかったの。わたし、佐山さんにずいぶんひどいことしたから」
「いいよ。俺も沙和子にはいろいろ大変なこと強いてたって、あとから大分反省した」
 彼女とつき合っていた間のことを、佐山は思い出す。沙和子は綺麗で、頭がいいだけではなく、佐山にとって『都合のいい』相手だった。
 理想の結婚相手、という意味で。
「断るのも辛かっただろうと思う、ごめん」
 結婚して早く家庭を持ちたい佐山と、まだ結婚なんて現実味すら持てない沙和子と、そこが喰い違って結局別れた。
 しかも佐山との結婚には普通とは言い難い事情がついて来る。沙和子ならばそれも受け入れてくれると信じてしまった自分のせいで、彼女には辛い思いをさせたと、彼女と別れた後も佐山にはそれが気に懸かっていた。
「この間、夏休みを取ったでしょう。――お母様のお見舞い、行ってきたの?」
 おそらく佐山と同じことを考えていたのだろう、沙和子が遠慮がちにその話題を口に乗せた。
「うん。御幸がまた車出してくれたから」
「お加減、どうでした」
 やはり遠慮がちな沙和子の口調に、佐山は少し笑って、ソファに凭れたまま医務室の天井を見上げた。
「体の方は割合調子がいいようだけど……相変わらず。俺の顔見て、翼はいないのかって聞いてきた」
「……」
 ごめんなさい、と微かな声で呟いた沙和子に、佐山はもう一度笑って見せた。
「それで母が倖せならいいと思うんだ、久しぶりに直接顔を見られて運がよかったし。いつもなら面会はできないところを、数分間だけでも会えたんだから」
「そう……よかったわね」
 優しく言う沙和子に、佐山が頷いた時、医務室の外でIDカードを認証する電子音が聞こえた。すぐにドアが開く。
 現れた秋口に、佐山は目を見開いた。
「秋口――」
 秋口は秋口で、佐山と一緒にいる沙和子を見て、驚いた顔になっていた。沙和子が佐山の腕に触れていた指先をそっと離す。
 その様子に気づいた秋口が、皮肉っぽい表情で口端を持ち上げ、笑った。
「何だ。具合が悪いみたいだから心配して来たけど、お邪魔だったみたいですね」
「途中で会って、心配してついてきてくれたんだ。ごめん雛川さん、助かった。仕事に戻って」
 いわれのないことで邪推されては沙和子が可哀想だと、佐山は秋口から目を逸らして彼女に言った。
「俺も戻るよ、どうもありがとう」
 沙和子は戸惑った様子ながら、佐山にそう言われると頷き立ち上がった。秋口の方を気にするように見上げてから、出口のところで佐山のことを振り返る。
「また今度、ゆっくり話ができる?」
「うん。そのうちに」
 ほっとしたように笑って、沙和子が医務室を出て行った。
 笑みを消し、佐山は自分も出て行こうとソファから立ち上がってから、そばにあった備え付けのノートに、使った薬の名前と『開発課・佐山翼』とペンで書きつけ、印鑑を押す。
 なるべく秋口の方を見ないように立ち去ろうと思っていたのに、ノートを閉じて出口へ向かった佐山の前には、無表情の秋口が立ちはだかっていた。
「ごめん、仕事に戻らないと。退いてくれるか」
「雛川さんとより、戻す気ですか」
 秋口がドアの前から退いてくれないと外には出られない。困って立ちつくす佐山の前で、やはり身動きもせず、冷たい口調で秋口が訊ねた。急にそんなことを問われて、佐山はつい、混乱する。
「そんなつもりないよ、沙和子の方から別れたんだ、向こうにだってそんな気ないだろうし」
「その沙和子さんと、あんたはどういうつもりでこんなとこでふたりきりだったのかって訊いてるんですよ」
 秋口の冷たい詰問口調に、佐山は胸をざわつかせた。
 何だかとても不快な感覚だった。
「秋口が気にするところじゃないだろ」
 ついそう吐き捨てると、乱暴に腕を掴まれ、佐山は驚いて秋口を見上げた。
「質問してるんだから、答えればいいんですよ。やましいことでもあるから誤魔化すんですか?」
「やましい――って、俺は別に」
 なぜこんなことを訊かれなくてはならないのか、佐山はますます混乱した。秋口の言葉はまるで沙和子といた自分を責めているようで、だったらなぜ自分が彼にそんなことを責められればいけないのかと、何か口惜しい気分になる。
(自分だって)
 浮かぶ思いは、それこそ自分の責める筋合いではないはずなのに、腹が立つ。
(他の人と一緒にいたのに)
 秋口が何のつもりで今ここにいるのか、佐山は理解できなかった。
「秋口も仕事の途中だろ、心配してくれて嬉しいけど、薬も飲んだし、もう大丈夫だから」
「だから誤魔化すなって言ってんだよ」
 さらにきつく腕を掴まれ、佐山は痛みに顔を歪め、秋口のことを睨むように見上げた。
 腹が立って仕方がなかった。
「秋口だって先週、他の子と遊びに行ったんだろ」
 怒った顔で自分を睨む佐山の表情と、その口から出た言葉に、秋口が虚をつかれたように表情を失くす。佐山はそのまま秋口から顔を逸らした。
「俺は、沙和子とは何もない。本当にたまたまとおりがかかったからここに連れてきてくれただけだ。……秋口の方は、ホテルまで行ったんだって女の子が話してるの聞いたけど」
 秋口に掴まれた腕が痛い。振り払いたかったが、力で敵わなかった。
「他にあてがあるなら、何も俺なんかにわざわざつき合ってくれなくてもいいんだ。頼んだわけじゃない。周りにいくらでも相手をしてくれる人たちがいるんだから」
「俺のこと好きなくせに?」
「――」
 吐き出された一言が信じられずに、佐山は強張った顔を秋口の方に向けた。
「当てつけみたいな女々しいこと言わないでくださいよ。俺が他に相手するのがいたら、何だっていうんですか」
 秋口は笑っていた。笑っているのに、見上げた佐山の背筋が冷えるほどの怒りが見て取れた。何かが秋口の神経を逆撫でしたのはわかったが、それで自分が謝る必要はないと、佐山は唇をひき結んだまま秋口を見上げる。
 その表情に、秋口は笑顔も消して、掴んだ佐山の腕を引いた。驚いた佐山が抵抗する間もなく、乱暴にソファの上に体を投げ出された。
「痛……ッ」
 ソファの固いところに手足をぶつけ、顔を顰める佐山の上に、秋口が覆いかぶさって来る。佐山はその体を押し退けて立ち上がろうとするが、苛立った動きの秋口に肩を押さえつけられ、身動きが取れなかった。
「やめろよ」
 ひどく惨めな気分で、佐山はただ手足をばたつかせた。秋口は佐山の抵抗など微塵も気に懸けない素振りで、佐山の眼鏡を外してしまった。
 口惜しくて、情けなくて、涙の滲みかけた目では秋口の表情はわからない。その顔が近づいてきたとわかった時、精一杯首を逸らして逃げようとしたが、強く顎を掴まれて適わなかった。
「あんたとやるメリットなんて、孕まないことと、女みたいにぐちぐち言わないことなんだから。黙ってろよ、俺のこと好きなんだろ。余計なこと言うなら捨てるぞ」
 間近で聞こえた声が信じられず、佐山は呆然とした頭で秋口の接吻けを受けた。
 まなじりからこめかみを伝って流れる涙の感触を、他人事みたいに味わっていた。