こころなんてしりもしないで・第8話

 自分のことを好きになる人間なんてこれまで掃いて捨てるほどいたし、その中に気に入った相手がいれば簡単に誘って簡単に寝たし、簡単に振る時に辛くなることなんて一度もなかった。
 誰かのことを考えて、息苦しいような、何もかも手につかないような気分になることなんて、欠片もなかった。
 秋口にとって、今のその感情がどうしようもなく苦痛だった。迷惑だとも思った。自分をこんな気持ちにさせる佐山の存在は迷惑だ。
 いっそいなくなってくれたらすっきりするのに。
「それじゃあ俺、こっちだから」
 店を出ると、佐山は笑ったまま道の向こうを指さした。
「佐山さん――」
 咄嗟に、自分に背中を向ける佐山に声をかけてしまってから、秋口はハッと口を噤んだ。
「うん?」
 佐山が振り返り、小首を傾げる。
『帰るんですか』
 その質問を口に乗せようとした秋口は、頭の中で誰かに『どの面下げてそんなことを聞くのか』と罵倒されて、それを言葉にすることができず、ただ首を振った。
「いえ。おやすみなさい」
 そう告げた秋口に、佐山は柔らかい笑顔を見せて、その表情がどうしてか秋口の呼吸をまた苦しくした。
「おやすみ、また会社で」
 追いかけたい、と思う自分の気持ちが何なのか、秋口には理解できない。追いかけて、よくも自分をこんな気分にさせたなと罵りたいのか。
(そうじゃない)
 ひどく混乱して、秋口はその場に立ちつくした。そうしている間に、佐山はまばらなネオンが散らばる宵闇の中へと消えていく。
 今ここで佐山を追いかけたら、自分はどうなってしまうのだろう。
 そう考えることが秋口には、どうしてかひどく怖かった。今まで知らなかった自分になることが無性に怖い。
 沙和子を落とすためなんて言い訳を、白々しくてもう自分でも使えなくなってしまった。彼女と佐山が一緒にいるところなんて、二度と見たくないと思っているのだ。
 沙和子と自分が恋人同士になれば、佐山が彼女とそうなることはない、などと考えてしまってから、そんな状態に陥った自分がやっぱり怖くなる。
 佐山はもういないのに、秋口はその場から逃げるように駅へと向かって歩き出した。
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