こころなんてしりもしないで・第9話

「ほら着いたぞ、起きろ、下りろ」
 揺さぶっても、佐山は「うーん」と億劫げな生返事をするだけで動かない。御幸は仕方なく佐山の腕を肩にかけてタクシーを降りた。
 佐山の体重は驚くほど軽かったが、しかし酔っ払いのぐにゃぐにゃした体を半ば担ぐようにマンションのエントランスに入るのは、結構な苦労だった。
「うー……」
 いっそ負ぶってしまおうか、と御幸が思った時、佐山の体がずるりと床に崩れた。
「気持ち悪い……」
「あたりまえだ、馬鹿。飲めないくせにあんなに飲むから」
 呆れてそう言い放ち、御幸はもう一度佐山の腕を引っ張り上げた。
 あんなに、と言ってもサワーをグラスに一杯も飲んでいない。それでも元々下戸な佐山には過ぎる酒量だったのだ。頃合いを見て止めたつもりだったのに、佐山は珍しく何度もグラスを口に運んでいた。
「……まあ、飲まずにやってられないのか」
 佐山には聞こえないほどの声で呟き、御幸は細い体を引き摺って、どうにか佐山の部屋まで辿り着いた。
「佐山、鍵」
「鞄……あれ、ポケット?」
 のろのろした動きで佐山があちこちポケットを探っている。御幸は大きく溜息をついた。
「定期入れの中だろ」
 御幸は勝手に佐山のポケットから定期入れを取り出し、中のポケットに収まっていた鍵で玄関のドアを開けた。
「ほら、靴脱いで、シャワー――は無理か、このまま寝ちまえ」
 御幸の言葉に操られるように、佐山は覚束ない動きで靴を脱いで部屋に上がった。転ばないように御幸がその体を支えてやると、佐山がぐったり凭れてきた。
「……気持ち悪い……吐きそう」
「待て、トイレまで待て」
「……っ」
 慌てて御幸があちこち見回すが、何も間に合わず、佐山が呻きながらその場にしゃがみ込んだ。
「……おまえ……マジかー……」
 思わず御幸が天井を仰ぐ。佐山のみならず、御幸のスーツといい、廊下といい、吐瀉物まみれになってしまった。
「……ごめ……」
 もう意識もあやふやらしい佐山が譫言のような声を洩らし、御幸は溜息混じりに佐山の上着をひき剥いだ。
「脱げ、もう。洗濯機と風呂借りるぞ、あと着替えも」
「うー……」
 汚れた自分と佐山の服を取って、御幸は脱衣所の洗濯機にシャツを放り込んだ。戻ってきたら佐山が廊下に転がっている。取ってきたタオルで佐山の顔や首を拭ってやって、その口から寝息が漏れているのに呆れと同時に安堵する。新聞紙とタオルで床を掃除して、佐山を寝室に放り込んだ。
「ったく……」
 相変わらず荒れ放題の部屋の中、苦悶の表情で眠っている佐山を見下ろし、御幸は渋い顔になった。
 こんなふうに酔っぱらった佐山を見たのは久しぶりだ。営業時代は接待で飲めない酒を無理に飲まされては、影で散々吐いていたが、開発に移動してからは御幸が知る限り一滴も酒を口にしていない。
『前にもちょっと飲んで、平気だったんだ』
 先刻、佐山が店でそう言った。佐山がひとりで酒を飲むはずがないから、誰と一緒にいる時にそんなことをしたのか、御幸は嫌でも察してしまった。
「……どう責任取るつもりだ」
 呟いた時、床で携帯電話の着信音がした。佐山と一緒に御幸が放り投げた彼の携帯電話だ。
 佐山を起こすべきか迷いながら御幸は電話に手を伸ばし、サブ画面に『秋口航』の名前を見つけ、さらに表情を険しくした。佐山を見ると、起きる気配はない。少しして留守番電話モードになり、電話が切れた。メッセージは残してないようだった。
「佐山の本日の営業終了」
 ひとりごち、御幸は携帯電話の電源を切って床に戻した。何の用かは知らないが、何にせよ佐山のストレスになるようなことしか言わない気がするのだ。そんなもので佐山の眠りを邪魔させる気はない。
 眠っている佐山を部屋に置いて、御幸は風呂場に向かった。シャツや靴下は洗濯中で、スーツも汚れを洗い流して濡れたまま。乾燥機はないから着て帰るものもない。今日は泊まりだ、と決めてシャワーを浴びた。
 ついでについ掃除も始めてしまい、ようやく風呂から上がった時、玄関の方で物音がした。御幸は眉を顰めつつ、そういえば鍵をかけるのを忘れてしまったと気づく。ひとまずタオルを腰に巻いて、脱衣所から外に出た時、人影が廊下を横切って寝室の方へ向かうのが見えた。
「――秋口?」
 寝室の入口で立ち竦んでいた秋口は、御幸に名前を呼ばれると、ひどく驚いたように振り返った。
「どうした、こんな遅くに」
 すでに日付も変わろうとしている時間だ。御幸はさらに眉根を寄せ秋口を見遣る。
「御幸さんこそ……」
 言いかけた言葉を飲み込むように、秋口が一度言葉を切り、御幸から視線を逸らした。寝室の佐山の方へ首を巡らせている。
「電話しても出ないし、チャイム鳴らしても反応ないから、中で倒れてでもいるんじゃないかと思って。そうしたら、鍵が開いてたから」
「ああ、すっかり寝てるんだろ。俺もシャワー浴びてて、チャイムが聞こえなかったし」
 そう答えながら、御幸も佐山の方を見た。佐山は俯せになって、疲れた風情で眠っている。
 体にはタオルケット一枚がかかっていたが、御幸が上着もシャツもスラックスも脱がせたから、まるでタオルケット以外は何も身にまとっていないようにも見える。
 秋口は佐山からまた、御幸の方へ視線を戻した。御幸も濡れ髪にタオル一枚だ。
「……なるほどね」
 口許を歪めて小さく嗤った秋口のことを、笑いもせず御幸は見返した。
「仲がいいとは思ってましたけど」
 皮肉っぽく嗤う秋口の顔が、明かりもつけない部屋の暗さのせいだけではなく、青ざめて見える。御幸は黙ってその顔を見返した。
「こういうことか」
 一瞬、秋口の胸ぐらを掴み上げたい気分になったが、御幸は即座にそれを押し殺し、代わりに笑い返した。
 困ったような、気まずいような、照れたような、我ながら絶妙の笑顔だと感心した。
「会社の奴らには内緒、な」
「……」
 秋口の表情から笑みが消える。
「……みずー……」
 寝室の方から声が聞こえた。まだ酔いのまったく冷めていないような佐山の声だ。
「御幸ぃ、みーずー、みず……喉渇いたー……」
「はいはい、今持ってくから!」
「はーやーくー……」
 間延びした、どこか安心して甘えたような響き。多分焦れてシーツの上を叩く音。佐山は酔うと少し子供みたいに我儘になる。
 苦笑して、御幸は秋口に肩を竦めて見せた。
「そういうことで、立て込んでるんだ」
 普段は先輩が相手でも生意気な態度を崩さず、女子社員を侍らせて悠然とした態度でいる秋口が、すっかり顔色を失くして険しい表情をしている。
 それから、何も言わずに踵を返した。
「……へえ、このまま帰るのか」
 御幸の呟きは届かないまま、玄関のドアが開き、閉まる音がした。御幸も玄関に向かい、鍵とチェーンをきっちり閉めてから、冷蔵庫のミネラルウォーターを取り出し、寝室に戻る。
 佐山はまた眠ってしまったようだった。
 サイドボードにペットボトルを置くと、御幸はベッドの端に腰を下ろした。やっぱり苦しそうな表情で眠っている佐山を見下ろし、苦笑気味に大きく息を吐いた。
「おまえが好きになったのは、またずいぶんと頭が悪いな」
 つい呟いてしまった御幸に、佐山が小さな呻き声で応えた。