こころなんてしりもしないで・第9話

「すみませんけど、やっぱり、男なんかより女といる方がよっぽど楽しいんで」
 お愛想だけの、本当はちっとも楽しくも嬉しくもないんだとわかる――出会った最初の頃みたいな笑顔でそう言った秋口の隣には、小柄で柔らかそうな女性がいた。
 彼女は秋口に甘えるようにしなだれかかり、秋口の手はあたりまえのようにその腰を抱いている。
 それじゃ、と言って秋口が踵を返す。あっさりと自分に背を向ける。
 待ってくれ、と言いたかったのに、その後に何と言葉を続けていいのか思いつかず、秋口の名前を呼ぶことももうできない。
 喉が詰まったように息ができない。
 体はなまりのように重たくて、腕一本、指先ひとつ思うように動かせない。
 どうせもう、秋口の背中は手を伸ばしても届かないところへ遠ざかってしまったけれど――、
「……ッ」
 大きく息を吸い込んだ刹那、目が覚めた。
 吸い込んだ息を吐き出すのも忘れ、佐山は全身を強張らせて、視界に入った天井を見開いた目で見上げる。
 心臓が異常なくらい早鐘を打っていた。全身に嫌な汗が伝っているのがわかる。
 怖くて、怖くて、今のは夢だったともうわかっているのに、まだあの場面の続きにいるみたいに、身じろぎひとつできない。
 ようやく自分が呼吸を忘れていたことに思い至り、もう一度息を吸い込もうとしたら、妙な具合に喉が鳴った。
 自分でその音に驚いた瞬間、ぼろぼろと、両目から大粒の涙が流れ落ちてきた。
「……っ……ん……」
 声を上げて泣いてしまいそうになり、急いで歯を食いしばって両目を掌で押さえた時、隣で誰かが身じろぎする気配がした。
「……佐山?」
 御幸の声だった。狭いベッドの隣に眠っているのは、誰より信頼している友人。なぜ彼がここにいるのか思い出せないまま、佐山は彼に心配をかけてはならないと、ますます力を入れて歯を食いしばった。
 御幸は佐山のそんな様子に気づいて、起き上がると、そっと佐山の腕に触れる。
「どうした? 具合が悪いのか?」
「……」
 佐山は答えられなくて、ただ首を横に振った。
「ちょっと待ってろ、水持ってくるから」
 言葉が出ないほど体調が悪いのだと判断したらしく、ベッドを下りようとする御幸のシャツを、佐山は咄嗟に掴んだ。
「違……嫌な夢、見て」
 切れ切れの、みっともない涙声で言った佐山を御幸が驚いたように見下ろし、それから、ベッドに腰を下ろし直した。ベッドサイドのテーブルからティッシュを取って、佐山に渡してくれる。
 佐山はティッシュを受け取って、涙ですっかりぐしゃぐしゃになった顔を拭った。薄くて柔らかい紙は、あっという間にびしょ濡れになってしまった。
「悪い夢は、人に話すと嘘になるってさ」
 また何枚かティッシュを取ってやりながら、御幸が優しく佐山にそう言った。
 佐山はやっぱり途切れ途切れの、多分聞いている御幸は半分もまともに聞き取れないだろう泣きじゃくった声で、見た夢のことを話した。
 終いには佐山自身も自分が何を言っているのかわからなくなって、ただ感情に任せて泣きじゃくった。
 気づいたら御幸がいなくなっていて、さすがに呆れて帰ってしまったのかと思っていたら、キッチンから物音がしていた。重たい体を佐山がベッドから起こした時、両手にマグカップを持った御幸が寝室に戻ってきた。
「何で鍋が本棚に入ってたかっていう件はあとで話すとして」
 湯気の立つマグカップの中身は、どうやらホットミルクのようだった。
「ほら」
 差し出されたカップを受け取り、佐山はそれに口を付けた。ミルクはほどよい温度で、猫舌の佐山もすぐに飲めるくらいだった。
 御幸もベッドに座り、こちらは多分コーヒーを飲んでいる。
 何も言わない御幸の隣で佐山も黙ってミルクを飲み、それが半分くらいに減った時、ようやく佐山の頭の中に現実感が戻ってきた。カーテンの向こうの窓は明るいが、まだずいぶんと早い時間のように思えた。時計を見ると午前五時。やっぱり出社のために起きるには早い。
「……ごめんな、驚いただろ」
 大きくゆっくり息を吐き出してから、佐山は隣の御幸に言った。ミルクを飲んだおかげか、多少掠れはしていたものの、佐山の声はそんなにひどいものではなくなっていた。
「この歳になって、こんなふうにわあわあ声出して泣くなんて……」
「歳はまあ、関係ないだろ」
 恥じ入る佐山を、御幸が苦笑気味に見遣る。
「よっぽど気持ちが追い詰められてたんだな、おまえ」
「……自分でそうしようと思ってやってることだし、人に泣きごと言うつもりなんかなかったんだけど……」
「俺がいる時でよかったよ。ひとりであんなふうに泣いてるところ、考えるだけでおっかない」
 御幸は軽口のようにそう言ったが、佐山には口調に反して御幸が本当に自分のことを心配しているのだとわかってしまって、申し訳ない気分になった。
「溜め込んでひとりで泣くくらいなら、俺に話せよ。その方が俺には親切だから」
「……うん。ありがとう」
 笑った佐山に、御幸もほっとしたように息を吐いた。
「もう大丈夫、泣いたらすっきりした」
 強がりではなく本音の部分で、佐山はそう思った。
 ここのところ、秋口の前で平静でいよう、みっともないところを見せないでおこうと気を張っていて、気分が休む間もなかった。考え込んでしまえば深みにはまりそうだから、いろいろと見ないふりでやってきたけれど、知らないうちに体中を澱のようなものが包んでいたようだ。
 泣き喚いたら、少し頭がクリアになった。
「……本当に、ひどいことばっかり起きてると思うんだけどさ」
 温くなったミルクのカップで掌を温めながら、佐山はぽつりと呟いた。
「ものすごく傷つくたび割と投げ出したくもなるんだけど、でもじゃあどうして自分がこんなにまで傷ついてるのかっていうのを考えると……」
「やっぱり、好きだなって?」
 佐山の台詞の続きを受け取り、御幸が言った。佐山は小さく頷く。
「限界までは頑張ろうって思う。まだ多分大丈夫」
 佐山の傍らで、御幸がかすかに溜息をつく。
「焚きつけたのは俺だけどさ。佐山は我慢強いから心配になるんだよ。普通の奴ならもうとっくに投げ出してる」
「我慢強いっていうか……鈍感なのかもなあ」
 カップを手にしたままベッドの上で膝を抱え、佐山は少し笑った。
 御幸が困ったような顔になる。
「もっとひどいことがある、もっと辛いことがある、それでもいつか変わることがある。そう考えると、大丈夫だって気がしてくるんだ」
「でもな、佐山、理不尽なことは大きい小さいにかかわらず理不尽であるってことに変わりはないんだぞ?」
「少なくとも今の状況を選んでるのは俺だよ」
「……」
「昔はさ、誰かが助けてくれるまで自分ではどうすることもできなかったし……何もしないってことを選んでたのかもしれないけど、もしかしたら」
 ずっと以前に、一番好きだった人と、時間が止まったような場所でふたりきりだったことがある。
 それはお世辞にも恵まれた状況とは言えず、事情を聞けば誰もが顔をしかめ、泣き出してしまうようなひどい時間だったのかもしれない。佐山自身はもうおぼろげにしか覚えていなかった。覚えていられなかったのか、思い出すことができないのか、その両方なのか。
 ただいつも、誰かに助けて欲しいと、ここから抜け出したいと願っていた。けれどもそうすることで、自分が誰よりも愛している人を壊してしまうとわかっていたから、何もできずにいた。
 結局その長い時間は、外からの救いの手で終わることになった。
 佐山は何ひとつ自分で動くこともできないまま。
「あの時とは違うだろ、今は。俺が逃げたとしても誰を傷つけることもないし、不幸にすることもないし、だから限界が来たら尻尾巻いて逃げ出すよ。俺だって進んで痛い目見たいわけじゃないんだから」
 明るく言った佐山に、御幸も何とも言えない表情で笑い返した。
「もし俺か佐山が女だったり、もし俺が佐山のこと男として好きだったら、秋口なんかに渡さないんだけどなあ」
「何だそれ」
「せめて逃げ込む場にくらいならせてくれよ。おまえはもうひとりじゃないし、おまえに何かあれば俺も、それに佐山の家の人たちも心配するんだからな」
「――うん」
 自分ひとりで抱え込んでいた気分だったものが、御幸の言葉のおかげで少し楽になった。
 それで、何となく笑ってしまう。笑った佐山の顔を、御幸が怪訝そうに覗き込んでいる。
「どうした?」
「いや。何だか出口のないどうしようもない場所に入り込んだ気分だったけど、案外、周りが見えてなかっただけなのかなってさ。考えたらおかしくなっただけ、のめり込むタチでもないつもりだったのに、案外思い込みが激しい自分にびっくりしたっていうか」
「周りが見えてないのは、おまえだけじゃないかもしれないけどな」
「え?」
 首を傾げた佐山に、御幸が「何でもない」と笑い返した。
 結局ふたりとも寝直す気にはなれず、出社までの間のんびり佐山の部屋で過ごした。
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