こころなんてしりもしないで・第9話

 やるべき仕事がなかったわけではないが、佐山はそれらすべてを放棄して、医務室へと転がり込んだ。
 どこが痛いとか、辛いとか、自分でも判別がつかず、本当に転がり込むという表現が相応しい状態でベッドに入り、睡眠を誘発する鎮痛剤を山ほど飲んで眠った。
 考えるのが、もう面倒だった。
 本当はひとつ、気づいてしまったことがあったのだけれど。
(うるさい……)
 自分の思考に蓋をして、佐山は誰もいない医務室の中で眠りについた。
 目が覚めた時には夕方だった。外していた眼鏡をかけて時計を確認すると、もうそろそろ終業時間が迫ろうとしている。かなり長い時間眠ってしまったらしい。
 ものすごい頭痛と胃痛と体の痛み。最低な目覚めだった。それでもいい加減仕事の続きをしなければと思い至り、佐山はふらつきながらベッドを下り、水道から直接水を飲み、顔を洗って、ついでに頭から水を被った。医務室備え付けのタオルを勝手に借りて、髪を拭きながら廊下に出る。
「佐山さん……? どうしたの、その格好」
 廊下の途中で驚いた声に名前を呼ばれ、佐山はタオルを頭に被せたまま振り返った。書類を抱えた沙和子が目を見開いて立っている。ぼたぼたと水滴を上着や廊下に落としながら歩いている佐山の方へ、慌てたように駆け寄った。
「びしょ濡れじゃない、ちょっと止まって、ちゃんと拭いた方がいいわ」
 面倒な気分になっていたので、佐山は沙和子にされるままタオルで髪を拭かれた。それなりに水滴を払って医務室を出たつもりだったのに、気づけば顔も服もびしょ濡れだ。
「スプリンクラーでも壊れたの?」
 怪訝そうな沙和子の言葉ももっともで、佐山はつい笑ってしまう。
 笑った佐山の気配に気づいて、その髪から顔に視線を移した沙和子が、表情を曇らせた。
「顔色、ひどいわ。医務室にいたのね?」
「だいぶマシになったよ。いい加減仕事に戻らないと」
「開発課まで一緒に行くわ」
 有無を言わさぬ調子で沙和子が言って、佐山の背中を支えた。あの雛川佐和子と寄り添い合って歩いている姿なんて見られたら、社内でいらぬ噂が立つだろうと頭の端でちらりと考えたが、佐山は何だかどうでもよくなって大人しく彼女と一緒に歩いた。
 沙和子は佐山が口を開くのも辛いと察してか、いろいろ訊ねてくることもなく、ただ気遣うようにゆっくりと歩きながらその様子を見守っている。
 本当に、沙和子ともう一度恋人としてやっていけるのなら、どんなにいいだろうかと思いながら、佐山はやけに遠く感じる開発課までの道のりを歩いた。
「ごめん――ちょっと、飲み物飲んでいっていいかな」
「座ってて、お茶でいい?」
 開発課に戻る手前の休憩所で、佐山はベンチの腰を下ろした。体が軋むように痛んだが、その痛みをやり過ごしてどうにか腰を下ろす。沙和子が冷たいジャスミンティを買ってくれた。
「少し気分がすっきりするから」
「ありがとう」
 沙和子の気遣いが、こんな時によりいっそうありがたくて、佐山は微笑んで紙カップを受け取った。沙和子もお茶を手に、佐山の隣に座る。
「よかった……」
「え?」
 溜息のように呟いた沙和子の声に、佐山は彼女の方を見て首を傾げた。
「佐山さん、すごい顔してたから。顔色もひどかったけど、何ていうか表情が……荒んでるっていうか」
 遠慮がちな沙和子の声に、佐山は今度苦笑する。
「ちょっとね。腹の立つことがあって」
 答えると、沙和子が驚いたように小さく目を見開いた。
「佐山さんが怒るって、どんなすごいことがあったの?」
 佐山は滅多なことでは怒らないし、それを口にすることなんてほんとんどないことを沙和子は知っている。だから彼女が驚くのも当然だ。
「何だろうなあ……嫌われていやがらせをされたり、面と向かって罵倒されたりする分には、悲しいと思いこそすれそれほど腹は立たないんだけど――」
 自分でもまだうまくまとまらない気持ちを考え考え口にしていた佐山は、不意に視界が蔭ったことに気づいて、何気なく顔を上げた。
「秋口君」
 同じように顔を上げ、ベンチの前に人が立っていることに気づいた沙和子が声を上げる。
 彼女が驚いた声音になっていたのは、そこにいた秋口の表情が、先刻の佐山の何倍も、何十倍も荒みきっていたからだ。
「……佐山さん、ちょっといいですか」
 訊ねる形は取っていたが、秋口の語調は有無を言わせぬものだった。佐山は腕をきつく握られ、体をベンチから引っ張り上げられて、顔を顰めた。
「用なら、ここで言えばいいだろ」
 体格でも力でも秋口には敵わない。佐山は休憩所から引き摺られるように歩かされながら、ベンチの方を振り返った。立ち上がった沙和子が、戸惑った様子で佐山と秋口を見ている。
「待って、秋口君、佐山さん具合が悪いのよ」
 心配げな声で沙和子が言うが、秋口は振り返りもせず鼻先で嗤っただけだった。
「だからって、別に雛川さんと一緒にいればよくなるわけでもないでしょ」
 そこで、佐山の限界が来た。
「秋口」
 掴まれたままの腕を、掴み返す。秋口が少し驚いたように振り返り、自分のことを見返す様子を、佐山はひどく冷静な頭でみつめた。
「え――」
 それから、秋口の目が、さらに驚いたように見開かれる様子を。
「……ッ」
 秋口の踵の上を横から蹴りつけると、その体がバランスを崩してよろめく。倒れて低くなった秋口の顔めがけて、佐山は握った拳を渾身叩きつけた。上から下へ、体重を乗せて繰り出された佐山の拳に、秋口の体が勢いよく床に倒れて弾んだ。
「い……ッ……ってェ……!!」
 殴られた頬を掌で覆い、秋口が呻き声を洩らした。何が起こったのか理解できていない、ただ痛みだけに反応した吐き出すような声。
 佐山は佐山で痛む拳を反対の掌で握り込み、床に倒れたままの秋口を見下ろす。
 後ろできっと沙和子が驚いているだろうが、佐山は気に止めなかった。
「秋口のことは好きだけど」
 見開いたままの瞳で自分を見上げる秋口を見て、佐山は微かに目を細める。
「全部おまえの思いどおりになんてならないよ」
 それだけ言って、踵を返す。一連の様子を見て、体を強張らせている沙和子の方へと戻った。
「沙和子、悪いけど手を切ったみたいだから、医務室に一緒に来てくれるか」
「え……ええ、構わないけど……」
 彼女にも、治療が必要なのは秋口も同じだとわかっていただろうが、今の佐山に彼を一緒に連れて行くことなんて提案できるわけがない。
 おそるおそる沙和子が振り返った先で、ようやく体を起こした秋口が、呆然と頬を押さえたまま佐山の背中を見ていた。
 佐山は振り返りもしなかった。
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