こころなんてしりもしないで・第9話

 頬を腫らし、憮然とした顔で業務を行う秋口を、皆遠巻きに見ている。
 明らかにそれとわかる殴られた痕だったが、理由を問う者も怪我を慮る者もいない。営業課にいる誰もが、「おおかた、えげつないやり方で誰かの女を寝取って殴られたのだろう」と思っている。
(くそ、痛え)
 苛々と、秋口は乱暴な仕種でパソコンのキーボードを叩いた。夕方から外回りをする予定は全部消えた。こんな顔でのこのこと客のところへ行けるわけがない。打ち合わせを日延べしてもらったり、電話ですませたりしたから、自分に対する評価はすっかり下がってしまったことだろう。プレゼンテーションなどがなかったことだけが幸いだ。
 佐山が沙和子と医務室へ消えてしまって、しばらくしてから、茫然自失していた秋口はやっと我に返った。
 佐山に殴られたのだ、とわかるまでに大分時間がかかった。
 営業課の同僚がおそるおそる「具合でも悪いのか」と声をかけてきて、秋口はようやく自分が殴られた頬を押さえたまま廊下にへたり込んでいたことに気づいたのだ。手を貸そうとする同僚を大丈夫だからと振り払い、とにかく頬を冷やそうとトイレに向かった。口の中が鉄臭いからうがいをしたら、吐き出した水が真っ赤に染まっていてぎょっとした。口の中を歯で切ってしまったらしい。あんな小柄で細身で頼りなく見えるのに、佐山の拳は秋口に充分ダメージを与えた。油断していたこともあるが、誰かに殴られて地面に倒れ込んだのなんて生まれて初めてだった。
 濡らしたハンカチで頬を冷やし、秋口は誰へともなく悪態をつきながらトイレの壁を蹴りつけた。
 腹が立って腹が立って仕方がないのに、その怒りを誰にぶつけていいのか秋口にはわからなかった。殴られて転がった自分にも腹が立つし、沙和子と医務室に行った佐山にも腹が立つし、御幸と寝ていた佐山にも腹が立つ。
 自分を好きだといいながら他の人間にも笑いかける佐山に腹が立つから、それをぶちまけようとしたら殴られた。
 秋口には佐山の気持ちがさっぱりわけがわからない。
 自分が他の女と寝ていることを知っても怒りもしなかったくせに、どうしてふたりきりになろうとすると怒るのか。
(……もしかして、最初からからかわれてたのか、俺は?)
 営業課に戻っても、悶々とそんな考えが頭をめぐり、仕事にならなかった。
 今頃佐山と沙和子が医務室で何を話して、何をしているのかと、考えるほど神経が焼き切れそうなひどい気持ちになったが、だからといってまたふたりのところに割り込んで、同じ目に遇うのは御免だ。それはきっとひどく惨めで情けないことだろう。
 同じオフィスにいる人間の、遠巻きな視線と囁きに耐えかね、秋口は苛立ったまま席を立った。いつもだったら自分を取り巻くどんな噂も中傷も気にならなかったし、自分が話題の中心になっていることに快感を覚え、やっかみ陰口を叩くことにしか能のない奴らを蔑みこそすれ、それに引け目を感じたことなどなかったのに。
 廊下に出て休憩所の方へ向かった秋口は、そこに先刻座って身を寄せるように会話をしていた佐山と沙和子のことを思い出し、腹の中で何かがねじれてちぎれそうな感じを持て余した。
 乱暴にベンチへ腰かけ、ポケットから煙草を取り出して咥える時、切れた口腔が痛んで顔を顰める。
 忌々しい気分でライターを取り出すが、ガス切れらしく火がつかない。ライターを床に叩きつけたくなったが、人が近づいてくる気配に辛うじてその衝動を抑えた。
「ああ、本当だ。悲惨だな」
 そんな呟きが聞こえ、秋口が顔を上げると、感心したような表情の御幸がそばにいた。
「……何ですか」
「秋口が男前になってるっていうから、様子を見に来たんだよ」
 いつもと変わらぬ穏和な口調で言って、御幸も立ったまま煙草を咥えた。まだ火のつかないライターと格闘している秋口を眺めながら、悠然と自分のライターで煙草に火をつけ、ポケットにしまいこんでいる。
 火を貸してくれ、と頼むのも癪に触るので、秋口は諦めて煙草を握り潰すとそのまま灰皿に捨てた。
「何か用ですか、俺に」
 御幸の顔を見れば、ゆうべのことを思い出して胃がムカムカしてくる。相手を見ないようにしながら、秋口は突慳貪な口調でそう訊ねた。
「だから言ったろ、おまえの姿を眺めに来たんだって」
「佐山さんに殴られてみっともない顔してる俺のこと、わざわざ馬鹿にしに来たんですか」
「やっぱり、佐山がやったのか」
 御幸の呟きが聞こえ、秋口は舌打ちした。語るに落ちたというのか。
 佐山も沙和子も事実を吹聴して回るようなタイプじゃないから、自分さえ黙っていれば、より惨めな気分になることなどなかったのに。
「何やって佐山を怒らせたんだか。あいつが自分から手を出すなんて、相当だぞ」
 御幸の「佐山のことはよくわかっている」という口ぶりが、秋口の神経を逆撫でする。
「まさか秋口の方から佐山に暴力ふるうってとこまで最悪な事態にはなってないだろうし――」
「そんなことするわけないでしょう。いきなり殴られたんですよ。しかも足払いまでかけられましたよ、こっちが体勢崩したとこ狙って力一杯」
 先刻の状況を思い出しながら秋口が仏頂面で説明すると、御幸が声を上げて笑った。
「よしよし、よくやった」
 嬉しそうな声だ。
「一発ですんだんなら佐山に感謝するんだな。あいつが本気出したら、おまえ今頃自力で立てなくなってるぞ」
「……何ですか、それ」
「ああ見えて佐山は場数踏んでるってこと。あの外見に油断してる奴が相手なら、勝負にならないから」
 秋口は顔を顰めて、自分の頬に指先で触れた。トイレで充分冷やしたはずなのに、腫れはひいていない。
「ま、さすがに会社ではそこまでやらないかな」
「会社ではって……他ではやってるみたいな口ぶりみたいですけど」
 つい顔を上げると、御幸がじっとこちらを見下ろしていて、秋口は居心地の悪い気分になった。
「異常に絡まれやすいんだよ、佐山。別に絡んで来る相手をいちいち叩きのめしてるわけじゃないけどな、しばらく動けない程度にダメージ与えて隙を作って、全力で逃げるのがコツなんだって言ってた」
「……想像がつかない」
 酔っ払いにでも絡まれたら、困りますとただ呟いて、周りが助けてくれるのを待っているような印象があるのだ。秋口にとっての佐山は。
「性格的には暴力沙汰とはまるで縁遠いからな。ただ――佐山はちょっと家庭が複雑で、小さい頃から周りに理不尽な暴力、言葉でも拳でも、そういうのを受けてきた奴だから。自分の身は自分で守るっていうのがあたりまえになってるんだよ」
「……」
 淡々と語る御幸のことを、眉根を寄せて秋口は見遣った。
「俺は話を聞いて想像するしかないけどな。体もそう丈夫じゃなかったっていうから、同じ年代の子供の標的になりやすかったんだろうって想像はつく。それで、そういう状況を自分の力で振り払って、今の佐山があるってことだ」
 御幸は二本目の煙草に手をつけた。秋口にはやっばり火を貸してくれなかった。
「そういう佐山が忍耐強くおまえとつき合って、とうとうキレたってことについて、ちょっとは考えるべきだな。秋口は」
「回りくどい嫌味なんて言わないで下さいよ」
「嫌味?」
 御幸が軽く眉を上げる。
 秋口はその表情を、また神経が焼き切れそうな気分で睨みつけた。
「俺が佐山さんに近づいたから、頭に来てるんでしょう。できれば遠ざけたいと思ってる。だからこんなふうにわざわざ俺のとこに来て」
「前にも言わなかったか、佐山と秋口の問題なら俺が怒る筋合いじゃないって」
「佐山さんと御幸さんの問題に俺が割り込めば、それは御幸さんの問題ってことになるじゃないですか」
「……おまえが割り込む、ねえ」
 ふと、そこで御幸が笑いの質を変えた。
「おまえの恋愛感情が割り込めるほど、俺と佐山の間にある純然たる友情は脆くないぞ?」
「友情って」
 秋口も嗤いを洩らし、御幸から目を逸らす。
「御幸さん言うところの友情は、男同士でも寝るような関係なんですか」
「佐山の部屋、知ってるだろ、客間もないし客用布団を敷けるスペースもないし」
「誤魔化すなよ、昨日あんなところ見せておいて」
「おまえが見たのは」
 いきり立ってベンチから立ち上がる秋口を、御幸は冷静に見遣っている。
「酔いつぶれてベッドに転がる佐山と、その酔っ払いの吐いたもので服を汚されてシャワーを浴びてた可哀想な俺。佐山の服も汚れたから俺が脱がせた」
「――」
「いい大人が我をなくすほど酔っぱらうなんてみっともないから、会社の奴らには言うなって頼んだだろ?」
 そこで笑った御幸を見て、秋口は彼がわざと誤解を招くような言い方をしていたのだと――つまりは佐山と彼の間にあるのが、本当に純然たる友情だということに思い至った。
(じゃあ)
 ぐらりと、目の前が揺れた気がする。
(俺は勘違いして、佐山さんに無理矢理)
「どうして……」
 自分がとんでもないことをしてしまったのだと、荒っぽく心臓が鳴り出した。秋口は強張る声で御幸を問い質す。
「どうしてそんな嘘」
「嘘はついてないさ、本当のことを説明してやる義理がなかっただけで」
「……」
「それとも俺は、笑っておまえに『どうぞ佐山をよろしく』なんて、大事な親友を預けなきゃいけなかったのか? 冗談だろ」
 秋口は再びベンチに座り込み、思わず頭を抱えた。
 先刻までの苛立ちが、同じ重さの後悔になって返ってくる。
「佐山はどんな困難があっても、自分でどうにかするって信頼はしてるけど、俺から進んで困難にぶつけるつもりもないからな。それでもあの時、怒って俺を殴りでもしたら上等、佐山を叩き起こして責めるならまだマシ、そう思ってたけど、おまえは結局何も言わずに逃げ出すし。それを追いかけていって弁解する義理も俺にはない、と」
「もういいです」
 御幸の言葉を聞いていられず、秋口は頭を抱えたまま強引にその台詞を遮った。
「もういいです。……俺が馬鹿だった」
 自分がどれだけひどいことを佐山に言って、どれだけひどいことを佐山にしたのか、秋口は思い出したくもなかった。
 ゆうべ御幸といる佐山を見てから――それ以前にも彼といる佐山を、沙和子といる佐山を目にしてしまえば、秋口はとっくに冷静ではいられなくなっていたのだ。
 他の女なら、自分が声をかければ簡単に喜ぶ。ましてや自分に気がある相手なら、秋口から何をしなくてもたやすく体を開いたし、呆れるほど自分に夢中になって、自分だけを見て、他の女を押し退け、自分だけと一緒にいようとしたのに。
 なぜ佐山はそうではないのか、理解できなかった。
 簡単に自分に甘えて、感情をぶつけてはこない佐山が、もどかしかった。
(それが面倒だと思ったんだ。俺は)
 何の苦労もなく手に入る程度のものなら、こんなふうに気持ちを乱されたりはしないと、どこかで理解しながら。
(離れる気なんかなかったくせに突き放すふりして、俺のせいで泣くところが見たくて、それでも許されるなんて思い上がって)
 頭上から微かな溜息が聞こえても、秋口は身動きひとつ取ることができない。
「だから、あとで痛い目に遇わないようにって忠告してやったのに」
 そんな御幸の声と共に、秋口の座るベンチに小さく固いものが当たる音がした。
 のろのろと秋口が視線を巡らせると、ベンチの上にライターが転がっていた。
 御幸は灰皿に煙草を捨てて去っていき、秋口は煙草を吸う気なんてまったく起きなかった。
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