こころなんてしりもしないで・第10話<完結>

 気持ちが落ち着くまで秋口と話すのをやめておこうと思ったら、一週間彼を無視しつづける羽目になった。
 多分、話し合う状態じゃない。自分も秋口も。まともに話そうとすれば、自分は秋口を許してしまうだろうと佐山にはわかっていた。それがお互いの関係のためにはよくないだろうということも。
 どうせ同じことの繰り返しだ。
(時間が必要なんだよ)
 それで駄目になるならなってしまえと、佐山は半ばやけくそ気味に思った。許せば自分がなお辛くなることは目に見えている。好きだから何をされても我慢できるわけじゃない。他の何にも代えがたい恋があると思い込むほど盲目にはなれなかった。
「そもそもは、そういうのが嫌で早く普通に結婚したかったんだけどなあ……」
 仕事を終え、帰宅のためにビルのエントランスへ向けてエスカレータを下りつつ、佐山の口から思わずぼやくような呟きが漏れた時、背中を叩かれた。
 振り向くと、沙和子が立っている。
「今、帰り?」
 沙和子は少し息を切らしていた。佐山の姿を見かけて、追いかけてきたのだろう。
「うん、沙和子もか? 総務も今日は遅いな」
 終業時刻はとうに過ぎている。総務部は残業の少ない部署だったから、開発部の佐山とこうして顔を合わせることは珍しい。
 腕時計を見てそう言ってから、佐山はもしかすると彼女が自分を待っていたのではないかと気づいた。
「ね、ご飯、まだだったら一緒に行きませんか」
「そうだな、何か食べてこうと思ってたし」
 断る理由はない。沙和子の誘いに佐山は応じた。ふたり揃って会社を出て、駅前近くのビルにあるレストランへ向かう。以前、佐山と彼女がつき合っていた時によく足を向けた店だ。女性かカップル客しかいなかったから、沙和子と別れてからは一度も訪れていなかった。
 昔と同じように沙和子と向かい合って座り、他愛のない話をしながらメニューを選び、やってきた料理にあれこれと感想を言い合っては笑う。そうしながら、佐山は何となく感慨深くなった。
 ここのところ沙和子と言葉を交わす機会は増えたが、こうしてゆっくり食事を一緒にとることなんて、本当に久しぶりだ。
 沙和子は以前と変わらず綺麗で、優雅だった。ゆっくり料理を噛み、口にものが入っている時には決して喋らず、明るい笑い声を立てて、上手にフォークとナイフを使う。いい意味で、しっかり躾けられたのだとよくわかる。沙和子のそういうところを佐山はとても気に入っていた。
 普通で、優しくて、暖かい匂いがする。
 それにずいぶんと癒される心地で、佐山は食事を終えた。
 食後のお茶を飲んでいる時、それまで饒舌に喋っていた沙和子がふと黙り込んだので、佐山も黙って飲み物を口に運んだ。
「……佐山さん、あのね」
 やがて沙和子が緊張した声音で呼びかけて来たので、佐山は首を傾げて彼女の方を見返した。
「うん?」
「あの頃わたし、まだ大学を出て社会人になってほんの数年で、自分が誰かと結婚するっていうことを考えることができなかったの」
 沙和子が言う『あの頃』がいつを指しているのか、すぐに察して佐山は少し笑って頷いた。
「わかってる、沙和子には本当に無理を言って申し訳なかったって」
「でも今は違うの」
 佐山の言葉を遮るように、沙和子は真剣な眼差しで言った。
 その表情で、彼女が今日これを言うために自分を呼び止めたのだと、佐山にもわかる。
「佐山さんと別れて、他の人とつき合ってから、佐山さんがどれだけ優しくてわたしのこと考えてくれてたのかやっとわかった。ただ一緒にいて楽しいだけじゃなくて、相手のことを思い遣るとか、そういうこと……わたしは子供で馬鹿だったから、帰る時間や両親のことを気に懸けて、羽目を外すこともないようなところを不満に思ってしまったけど、今ならわかるの。佐山さんみたいな人、他にいないんだわ。みんなただわたしを楽しませることだけを考えて、ただその場その場で無茶をしても恋人として振る舞えればいいだけで、本当にわたしのこと大事にしてくれていたのは佐山さんだけだって」
「……」
 佐山は答える言葉を思いつかず、ただ黙って沙和子のことを見返した。
「本音を言えば、あなたのお母様のことでも結婚に二の足を踏んでいたことはあるわ。そういう覚悟はなかったし、佐山さんが始めから隠さずにわたしの家族にも話したことで、反対されていたから余計に。でも、今は違うの。佐山さんのお母様となら家族になりたいと思うし、わたしにできることがあればお母様のためにも、佐山さんのためにも力になりたいと思う。……今さらって、思われるでしょうけど……」
 少しずつ困った顔になっていく佐山の表情に、沙和子の声音も次第に小さくなっていった。
「……呆れるわよね。佐山さんの優しさに後足で砂をかけるような真似をして、裏切ってわたしの方からいなくなったのに」
「そんなことない。沙和子がそう言ってくれるのは、すごく嬉しいよ。ありがとう」
 実際、嘘偽りなく佐山には沙和子の言葉が嬉しかった。彼女が自分以外の男を選んで、彼女の言うとおり『裏切る』ような形で別れが来たことは辛かったから、今真剣な顔で沙和子が自分との結婚を考えると言ってくれるのは、本当に嬉しい。
 だが――
「でも、ごめん、今好きな人がいるんだ」
 すんなりとそう答えが出てきて、佐山は内心、自分でも驚いた。
 これ以上ひどい思いを味わうくらいなら、別の選択肢を選んだって構わないと、自分では覚悟を決めていたはずなのに。
 そうやって、好きだと思った相手に手を上げたりもしたというのに。
「恋人……なの?」
 沙和子の問いに、佐山は苦笑するしかない。
「いや、そういうんじゃ、全然。空回ってばっかりだよ。到底うまくいく気がしない相手だし」
「……」
 沙和子はまだ何か訊ねたそうにしていたが、一度言葉を呑み込んで俯き、それから顔を上げた。
「それでもいいの」
 彼女は本当に綺麗な人なのだと、まっすぐに自分をみつめられて、佐山は思う。
「それでもいいから一緒にいたいの。佐山さんのこと好きだから、一緒にいたい」
「……ごめん」
 彼女の真摯さを愛しいと思いながら、それでも佐山にはそう答えることしかできなかった。
「そういうのは、嘘をつくみたいで沙和子に失礼だと思う」
「でもわたしは」
「それに、当てつけみたいで嫌だし……自分の気持ちを誤魔化すのも無理なんだ」
 正直な気持ちを伝えることでしか、彼女の気持ちに報いることができない。それが佐山の胸に痛かったが、今は沙和子の方がずっと痛いことはわかっている。
 沙和子はそれ以上言いつのることができず、目を伏せて小さく溜息をついた。
「楽な方にって、考えないのね。佐山さんは」
「器用じゃないし、融通がきかないから」
「強いっていうのよ。そういうの」
 苦笑して答えた佐山に、沙和子も困った顔で笑いを返した。
「どうして佐山さんのそういうところ、あの頃気づかなかったんだろう。勿体ないことしたなあ」
 沙和子が冷めた紅茶を口にして、佐山も何とも答えられず、曖昧に笑いながら空になった湯呑みを片手でもてあそんだ。
「……こうやって、たまに食事をするくらいはいいわよね」
 紅茶を飲み干すした沙和子に問われ、佐山は頷きを返す。
「もちろん」
「応援、しないからね」
 この言葉は、佐山は聞こえなかったことにした。
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