こころなんてしりもしないで・第10話<完結>

 沙和子の誘いで別の店に移り、彼女は酒を、佐山はジュースを飲んでずいぶん長い時間を一緒に過ごした。
 お互いの家族のことや共通の知人の近況など、二年の間話せなかったことが山のようになっていたから、話題は尽きないまま名残惜しくその夜は別れた。
 遅くなってしまったので佐山が沙和子を自宅まで送って、自分のマンションに帰り着く頃にはすでに日付が変わろうとしていた。
 階段を昇り、自分の部屋のあるフロア、その共同廊下に進もうとした佐山は、そこに人影を見つけて少しぎょっとした。こんな時間に他の住民と会うのは珍しい。
 そしてその人影が自分の部屋の前に佇んでいること、その上それが秋口だということに気づくと、佐山は咄嗟にきつく眉根を寄せ、唇を引き結んだ。
 足音に気づいて秋口が佐山の方を見る。佐山は早足に秋口の方――自分の部屋の前まで向かうと、ポケットにしまってあった定期入れから鍵を取り出す。
「退いてくれないか」
 秋口の顔を見ないように佐山は言った。
 秋口は佐山を部屋に入れまいとするように、ドアの前に立ちはだかったままだ。
「雛川さんと一緒だったんですか。会社で並んで出て行くところ見ました」
 前置きも何もなく、秋口は低い声でそう訊ねる。
 自分に非があるわけではないのに、秋口の口調が明らかに責める響きを持っていたから、佐山は表情だけではなく心も曇らせてしまう。
「そうだよ」
 こんなふうに秋口に責められるいわれなんて、自分には何ひとつないのだ。
 佐山が顔を上げて見ると、秋口は吐き出す言葉を必死に呑む込むような、歪んだ表情をしていた。
 自分の腕へと伸びてこようとする秋口の手を見ながら、佐山は嗤った。
「それでまた、俺のこと無理矢理抱くのか?」
 大仰なほど、秋口の手がびくりと震えて動きが止まる。佐山はそれをひどく冷静な心地で眺めながら、秋口の体をドアの前から押し遣った。
 大した力も入れていなかったのに、秋口の体は簡単に動いた。
「佐山さん」
 呼びかけには応えず、佐山はドアを開けてすぐに部屋の中へ滑り込む。
「佐山さん!」
 苛立った秋口の声を断ち切るようにドアを閉め、錠も下ろした。
「何でだよ、何で俺の話は聞かないのに、雛川さんとは」
 チェーンもかけてしまうと、外から力ずくでドアを蹴りつける音と衝撃が響く。二度、三度と続いてから、苛立ったような足取りが部屋の前から離れていった。
「……」
 佐山はドアに額を押しつけ、目を閉じると深々息を吐いた。
「……子供なんだよなあ……」
 呟く表情には、苦笑が浮かんでしまう。
 ――いい加減、佐山にだってわかっているのだ。
 秋口は自分に何かしらの執着心を持っている。多分それは、独占欲といってしまっていいくらい強い気持ちだ。
 それが恋とか愛情なのかとか、そんなのはわからない。きっと秋口自身にだってわからないのだろう。
 わからないから苛立って、うまくいかないことに駄々を捏ねている。
 最初に佐山の方から好きだと言ったから、簡単に佐山が自分のものになったと思い込んで、なのに思い通りに佐山が自分の言いなりにならないから腹を立てている。
(ペットとか、おもちゃじゃないんだよ、俺は)
 それを秋口がわからない限り、佐山は彼とまともに話ができるなんて到底思えなかった。
(最初はまあ、それでもよかったのかもしれないけど)
 佐山の気持ちを哀れんでか、おもしろがってか、秋口が気紛れにでも自分に手を出したことは、幸運なのかもしれないと最初は思った。思い込もうとした。どうせ報われない気持ちなら、思い出のひとつでもできれば何もないよりはまだマシだろうと。
 もちろん、秋口が純粋に自分へ気持ちを返してくれればそれが本当の幸福だとどこかで考えてはいた。そうなることを願わなかったわけじゃない。期待もなく秋口と一緒にいたわけじゃない。
 でもそれは、秋口が他の人間を相手にしたことで裏切られたのだ。自分とはまるで本気ではなかったと、あれほどわかりやすい形で示す方法も他にない。今まで秋口が相手にしてきた大勢の女たちと十把一絡げの扱い。いや――『女より面倒がないから』などという理由でしかなかったと、そう本人の口から聞かされた。
(それで今、これなんだから)
 きっと自分が泣き喚いて、縋りつけば、秋口は満足だったのではないかと今の彼を見て佐山は気づいた。
 秋口が他の相手といることは許して、自分は秋口だけを見ていると甘えて訴えれば、それで秋口の自尊心は満たされるのだ。
(……馬鹿だよ)
 そんなことをしてまともに続く関係があるわけない。そういうふうにしか秋口が佐山の気持ちを確認することができないのなら、やり方はどんどんエスカレートするだけだ。秋口が佐山を傷つけ、傷ついたことをたしかめて喜んで、また佐山を傷つけて、いつまでもいつまでも終わりなく続いてしまう。今だってもうそうなりかけている。
 そんな歪んだ関係なら、たとえそれを作り出した理由が愛情だったとしても、佐山は欲しくなんてなかった。
 それを欲しがる自分なんて認められなかった。
 だから今、秋口と話すわけにはいかない。秋口が何も気づかないままそれを許したくない。
 どこで間違ってしまったのかはわからなかった。以前に何度も思ったように、『何でこうなったんだっけ』と途方に暮れる気分にもなった。
(でも、あと、もうちょっと)
 自分の心だけが秋口に向いているのなら、自分が何かを望むのはお門違いだと思っていたけれど、もしも秋口がほんの少しでも同じ気持ちでいてくれるのなら、願って、待つことは間違ってはいないのかもしれない。
 縛るだけじゃないやり方で、ほんの少しだけでも自分に好意を持っているのだとわからせてくれたなら。
 それですべてがうまく行くわけではないとわかっていても、その先にわかりあうことができるかもしれないと信じられる気がする。
 祈るような気持ちで、佐山は秋口がそれに気づいてくれることを思った。
 それを自分に信じさせてくれることを願った。
 そうじゃなくちゃ、自分を好きだと言ってくれた沙和子を傷つけてまで秋口を選んだ意味がない。