きまずいふたり・第2話

 玄関に自分のものではない男物の靴をみつけ、秋口は軽く眉をしかめた。
 短い廊下を進んですぐのダイニングキッチンのドアを開けると、ソファに座って新聞を広げる男の姿がある。秋口に気づいて顔を上げ、気安い調子でひらひら手を振っていた。
「よっ、おかえり」
「まだいたのか」
 秋口は素っ気なく言って、上着を脱ぐと鞄と一緒にソファへ放り投げ、自分も男の隣へ腰を下ろした。
「何て言い種だ。優しいお兄ちゃんは、こんな夜中まで帰ってこない悪い子を待っててやったんだぞ」
「頼んだ覚えもないしおまえみたいな兄を持った覚えもないし」
 相手の軽口に億劫げに応酬してソファに凭れると、近づいてきた顔に首筋の匂いを嗅がれた。
「うん。まごうかたなく女の匂い」
 秋口は自分にくっつく頭を邪険に押し戻した。相手は気を悪くしたふうもなく、笑いながら立ち上がって秋口を見下ろす。
「コーヒー淹れてやるよ、結構飲んだみたいだな」
 指摘されたとおり、秋口は少し酒を過ごして、頭も体もすっきりしない。しかも決して楽しい酒ではなかった。
「一杯飲んで帰ろうとしたのに、他の女と鉢合わせして……」
 重たい頭を押さえつつ秋口が呻くように言うと、キッチンの方から笑い声が返ってきた。
「どっちかと泊まってくりゃよかったのに。もう終電もなかっただろ」
 他人の部屋なのに、文字どおり勝手知ったる様子でコーヒーを淹れる背中を、秋口は溜息をつきながら見遣った。
「自由業のおまえと同じ尺度で測らないでくれ、明日も会社なんだ」
「ああ、そういや平日だっけ」
 これだよ、と秋口は軽く首を横に振った。
「そうか、おまえももう社会人なんだよなあ。あんなに小さくて可愛かった航ちゃんが」
「何を今さら。大学卒業してもう二年だぞ」
「そんなに経つのか、俺も年取るわけだなあ」
 しみじみ言いつつソファに戻ってきた相手から、秋口はコーヒーカップを受け取る。
「じじくさい……」
「いやもう徹夜が辛いしさ、三十路を間近に控えて。部屋貸してくれて助かったよ、家に帰るまでに行き倒れるところだった」
 コーヒーを啜りつつ、秋口はふと、コーヒーカップを手に隣に腰を下ろした相手の顔に、大きなすり傷があるのに気づいた。
「おまえ、どうした、ここ」
 傷の辺りを突いてやると、痛そうに少しその顔が顰められる。
「いて、触るなよ。暴漢に襲われたんだ、名誉の負傷」
 相手の説明を、秋口ははなから本気にしなかった。
「捨てた女にでもやられたんじゃないのか」
「そんなポカしません、航とは違います」
 すました顔で言われた言葉に、秋口は憮然となった。
「すごいよな、おまえの本命ってのも。顔と腹に一発ずつだっけ、まあそのうちそういう目に遭うかもとは思ってたけど」
「俺の話はいいだろ、別に」
 秋口はますます不機嫌な顔で、おもしろがっている相手の言葉を遮った。
 ゆうべ遅くに仕事の都合があるから秋口の部屋に泊まらせてほしいと連絡があって以来、相手の顔を見て話したのは今で初めてだが、『別に構わないけど』と答えた声音で簡単に不機嫌を見破られ、おもしろ半分に追求されてつい話してしまった。
 色恋沙汰がこじれて、自分のひどい仕打ちへの仕返しに殴られたと正直に話したら、電話の向こうで大喜びされて、秋口はよりいっそう不機嫌になったわけであるが。
 さすがに、鉄槌を下したのが同じ男だと言うことまでは秋口も話していない。さらに喜ばれそうな予感がしたからだ。
「おまえの怪我はどこの誰にやられたのかって訊いてるんだよ」
「誰だったかな、名前は忘れちゃったけど。通りすがりの引ったくり犯だよ。銀行出たところで、下ろしたばっかりのおばあさんの金を狙ってきた」
「わざわざ助けたのか」
「そりゃ放っておけないだろ、かよわきお年寄りを狙った許し難き犯罪」
 もっともらしく力説するまじめぶった顔を、秋口は胡散臭いものを見る目で見遣った。
「本当に被害者、老人だったのか。亮人好みのフェロモン系歳上女か、美形の男だったなら信じるけど」
「吉森益江さん六十五歳、十年前に夫に先立たれて、嫁いだ娘は連絡を滅多に寄越さない寂しいご老人だ。まあ、若い時はきっと美人だっであろう顔立ちだったけど」
「……詳しく聞いたもんだな」
「不安がってたから、警察までついて行ってやったんだよ。そしたらまあ喋ること喋ること。俺ももうひとりも、立ち回りよりおばあさんの相手に苦労した」
「もうひとり?」
「ああ、一緒に引ったくり犯捕まえた――っていうか、そっちの活躍で無事掴まったって言うか。すごかったぜぇ、結構大柄な男相手で、俺なんかあっという間に吹っ飛ばされたのに、あっという間にふたりのしちゃって。痛快っていうか、何て言うか」
 その時のことを思い出してか楽しげに話す言葉を、疲れていた秋口は話半分に聞き流した。
「ふうん。世の中には物好きな正義の味方が多いんだな」
 コーヒーを飲み干し、カップをテーブルに置いて立ち上がる。
「まあコロスキンでも塗っておけよ。俺は風呂入って寝る」
「はいはい、お湯沸いてるよ」
 どうやら家主より先に客が風呂を浴びたらしい。掃除して湯を張って、と時間を取るのが秋口には面倒だったので、ありがたくはあったが。
「俺はソファ借りるな、航が明日会社行ってる間に出てくから」
「どうぞ」
 適当に応え、秋口は風呂場に向かった。服を脱ぎ、すぐに湯に漬かる。
 とにかく疲れていた。
「くそ……」
 顔にぬるくなった湯を浴びせ、誰にともなく悪態をつく。
 それでも自分と鉄拳制裁を与えた相手について、根掘り葉掘り聞かれなかったことが多少救いになった。今そんな話を聞かれたら、きっとみっともなく泣き言をぶちまけてしまうに違いない。今この家にいる歳上の従兄は、秋口がもっとも自分を飾り立てせず話せてしまう相手だ。もっとも根が自尊心の高い性格なので、『他人に較べれば』と注釈は入るが。
(……これ以上他人に無様なところを見せるなんて)
 それでなくてもここ最近、何かとそんな姿を晒し続けてしまっているというのに。
 今日だって、連れがいるのに他の女とバッティングするなんて、しかも両方から人前で不実を責められるなんて、みっともないことこの上ない。
 今まで後腐れない相手を選んできたつもりだったのに、誤算の連続だ。
 自分の思いどおりに行かないことばかりで、いい加減うんざりも限界を超えてきた。
(……今日も結局、メールのひとつもないし)
 そもそも向こうから自主的にメールが来たことなど一度もないが。
 その事実に思い当たって、秋口は湯につけた唇をむっと曲げた。
(向こうから距離置きたいって言ってきたんだ。向こうが連絡くれないと、声かけていいのかわからないじゃないか)
 ――もちろんそれが自分に対する言い訳で、こちらから声をかけた時に袖にされたり、無視でもされたら耐えられないからだとわかっている。だから自分から連絡を取ることに二の足を踏んでいるのだと。
「……」
 何もかもうまくいかない。
 自業自得だとわかっていても、苛立ちは止められない。
(あと、もう少し)
 風呂釜にでも八つ当たりをしたい気分をどうにか抑えて、秋口は自分にそう言い聞かせた。
(もう少しだけ――当分、佐山さんに会うのは我慢しよう)
 それから秋口は、明日はどの課のどの女の子と会うか算段しながら、しばらく風呂に浸かり続けた。
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きまずいふたり

Posted by eleki