きまずいふたり・第3話

 エレベーターでばったり秋口と乗り合わせた。
「あ」
 先に秋口が乗っていたところに、佐山が後から乗り込む形だ。タイミングがいいのか悪いのか、他に乗客はいない。多分悪い方だ、と思いながら佐山はエレベータに乗り込む。苦笑気味に佐山が秋口を見ると、突慳貪な、顎で頷くような仕種が返ってきた。
「九階ですか」
「あ、うん」
 秋口と佐山の仕事場は同じフロアにある。先にその階のボタンが押されていたのでそのままエレベータの奥に収まったら、秋口が声をかけてきて、佐山は少し驚く。
「秋口は外回りか?」
「はあ、まあ」
 自分から声をかけてきた割に、秋口の語調は無愛想だ。
「……佐山さんは?」
「ああ、俺は沙和――総務に用事。出さなきゃいけない書類があって」
 それでも言葉が交わせたことが嬉しくて答えた佐山に、秋口は返事をしなかった。エレベータはあっという間に九階についてしまい、秋口はやっぱり振り返ることもなく、足早に廊下を去っていってしまった。
 取り残され、佐山はぼんやりとその後ろ姿を見送る。
 背が高くて、モデルみたいな体型で、脚が長くて、歩き方まで見事なもんだと、佐山は感心してしまう。
(……怒るところだったのか、今のは)
 元恋人のことをつい名前で呼んでしまった瞬間、しまったと思って言い直したのだから、それが地雷らしいというのは佐山も承知の上だったのだ。
 以前秋口は、彼女、雛川沙和子と佐山がいるところを見て不機嫌になった。
(何もしない割に、俺が『秋口にとって』他人のものだと思えることには腹を立てるんだよな)
 そういうふうに、今あの背中を追いかけていって言ってみたら、秋口はどういう反応を示すだろうか。
 想像して、佐山は溜息をついた。
 だったら何だよと、余計に不機嫌になって終わりだろうと、簡単に想像がつく。
 そしてそう言われてしまえば、自分には答えようなく、黙り込んでしまうしか道はないということも。
「煮え切らないなあ……」
 自分も、秋口も。
 佐山が大きく溜息をついた時、ポケットの中で携帯電話の着信メロディが鳴った。アドレス帳に登録していない番号用の音楽だ。取引先の誰かだろうか、と思いながら通話ボタンを押し、電話を耳につけた。
「はい、佐山」
『あ、突然すみません、先日お会いした縞です』
(シマ――?)
 耳慣れない名前の響きを聞きながら、佐山は背筋が震える感覚を味わった。
 低くて、よく響く、そして柔らかい感触の声だった。
『ほら、先週の水曜日に一緒に警察にご厄介になった』
「ああ、あの時の」
 言われて思い出した。先週、買い物の途中で引ったくりに遭遇した時、一緒にその犯人を捕まえた若い男だ。そう言えば名刺を交換した。あの日は慌ただしかったので(結局佐山は背広を買えずに帰る羽目になった)、改めて礼をしたいと言われ、大したことじゃないからと遠慮したのだが、先に名刺を出されてつい自分のものも渡してしまった。営業担当時代に染みついた悲しい癖だ。
「お怪我はもう大丈夫ですか?」
 犯人と格闘して、痛々しい傷が顔にできていたのを佐山は思い出す。電話の向こうで照れ臭そうに笑う気配がした。
(うわ……)
 佐山は再び心臓を鳴らす。
『おかげさまで。やっと痕が消えてきたので、お約束どおり誘いの電話です。今晩辺りお時間いただけないかと思いまして』
「や――あの、でも、本当にこっちが何したってわけじゃありませんから」
 戸惑いつつ、佐山は狼狽した様子が相手に伝わらないよう気をつけて答えた。
『ご迷惑ですか?』
「いえ、そういうわけじゃ」
『仕事で、今晩またこの間の駅の方まで寄るんですよ。佐山さんの会社からも近いみたいだから。駄目ですか?』
 ――この声で、そんなふうに問われて、無下にできるほど今の佐山は元気じゃない。
「……俺、酒が一切駄目なんです。それでも大丈夫なら」
『料理のおいしい店、夜までに捜しておきますよ』
 嬉しそうに、笑った調子で答える声。佐山もつい、つられて微笑んでしまった。
「じゃあ、楽しみにさせていただきます」
 待ち合わせの場所と時間を決めて、佐山は縞との電話を切った。
 ポケットに電話をしまう途中、思い出して今度は手帳を取り出す。カバーの見返しに挟んでおいた名刺を確認した。
『縞亮人』という名前には肩書きがなく、ただ『Akito Shima』とローマ字で読み仮名が振ってある。あとは個人の自宅らしいマンションの住所と、ファックスと共用の電話番号、メールアドレス、携帯電話の番号。事務的な名刺よりもデザイン的で紙の色も質も凝っている。
(何やってる人なんだろう)
 出会った日に着ていたのはたしかそれほどかっちりしていないジャケットにシャツ、服装では自分と同じような会社員には見えなかった。その雰囲気も。
「よう、どうした佐山。こんなところに突っ立って」
 名刺に見入っていると、後ろから肩を叩かれた。振り返ると、御幸の姿がある。エレベータから降りたところで佐山の姿をみつけたらしい。
「ん? 新しい仕事の相手か? ずいぶん個性的な名刺だな」
 佐山の手にした事務的とは言えない珍しい名刺に目を止め、御幸が首を傾げる。
「仕事の相手じゃなくて――」
 佐山は縞と出会った状況や、たった今食事に誘われたことを御幸にかいつまんで説明した。
 御幸は佐山の話を聞きながら、そこはかとなく表情を曇らせている。
「何だそれ、大丈夫か? 変なやつじゃないだろうな」
「変って、宗教とか?」
 御幸の心配も、佐山には理解できる。連絡するとは言われていたが、社交辞令のようなものだと理解していたし、一週間も経った今になって、本当に誘われるとは佐山も思っていなかった。
「そう、マルチとか。その名刺、肩書きがなくておかしいぞ」
「怪しい人には見えなかったけどな、すごく人当たりがよくて、事件に遭っておろおろしてる被害者のおばあさんを励ましてあげてたし、いい人みたいだった」
「見るからにいい人なんてむしろ怪しいだろ、このご時世」
「そんなこと言ったら、御幸も充分怪しい範疇だぞ」
 御幸も、きっと初対面の、ましてや見るからに動揺している女性がいたら、間違いなく優しくするだろう。
 そう佐山に言われて、御幸は複雑そうな顔で息を吐いた。
「俺がついていければいいんだけど、今日残業なんだよな」
「大丈夫だって、本当におかしな人には見えなかったし、それにいざ何かあったら、殴り飛ばして逃げるよ」
「まあ……滅多なことは考えないか、相手も。佐山が引ったくり犯のしたところを目の当たりにしたんだもんな」
 御幸はそう言って自分を納得させ、それでも「何かあったらすぐ俺に連絡しろよ」と佐山に言い含めてから去っていった。
 佐山はもう一度名刺に視線を落としてから、それを再び手帳に挟み込んで丁寧にしまう。
 どことなく、自分の心が夜の再開を楽しみにして浮き上がっているのを感じた。
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きまずいふたり

Posted by eleki