こころなんてしりもしないで・番外編

「と、おまけ。」同人誌版の書き下ろしだった短篇です。「きまずいふたり」の後のお話になります。 「それはさすがにどうなのか」バレンタインデーの佐山と秋口の話。以前サイトで公開していたものです。今回は多分佐山が悪い。 この小説を読むには と、おまけ 廊下に見覚えのある制服姿をみつけ、秋口は怪訝になった。「……雛川さん？」 秋口のひとりごとのような呟きは、彼女の耳までは届かなかったようで、沙和子は秋口が発見した時と同様に開発部の入口からその中をそっと覗くような格好のまま立っている。 総務部の人間が別フロアの廊下にいることは、さほど不思議でもない。だが彼女の挙動は明らかに不審だった。 首を傾げつつ、秋口は沙和子の方へ近づくと、改めてその背中に声をかけた。「雛川さん、何やってるんですか？」「きゃっ」 沙和子は穏やかに冷静な彼女らしくなく、慌てた声を上げると慌てた様子で振り返った。「あ……秋口君……驚いた」「驚いたのはこっちですよ。どうかしたんですか」 総務の仕事で書類でも取りに来たのなら、さっさと部屋に入って用事をすませればいい。なぜ沙和子が入口で、中をこっそりと覗くような真似をしているのか、秋口には理解できなかった。 沙和子は訝しげに訊ねる秋口に、さっと普段の彼女らしい優雅な笑みを作って取り繕った。「何でもないの、ちょっと、通りがかったから」「……佐山さんに用事ですか？」 一瞬にして普段どおりの様子になったのがむしろ不審で、秋口はもしやと思いつつ訊ねてみる。 沙和子の顔がさっと赤くなり、秋口は微妙な気持ちになった。 微妙な――腹立たしいような、不安なような、そんな気持ち。「用事っていうか、ええと、そうね、用がないわけじゃなくて」 煮え切らない口調で頬を赤らめる沙和子が可愛らしくて、そのことに秋口はますます不機嫌になる。 沙和子がまだ佐山に未練があるのはもちろん承知の上だ。美人で、優しくて、仕事もできる社内中の憧れの的である雛川沙和子がこんなふうに可愛らしく頬を染める理由が佐山翼のことであるなら、秋口はどうしても機嫌を損ねざるを得ない。「なら呼んだらどうですか、中にいるんでしょ」「待って、社用じゃないの」 何なら自分が、という調子で開発課のオフィスを覗きかけた秋口の腕を、沙和子が慌てた様子で掴むと、入口から離れた方へ引っ張った。その勢いに、秋口は少し驚く。「何なんですか、一体」「――秋口君、今日は朝から外回り？」「そうですけど、朝イチで直接Ｎ社に行って、今出社したところで……それが何か？」「じゃあまだ、今朝は佐山さんに会ってないのね？」「……。そりゃ、もちろん」 秋口は憮然とするのを隠そうと努力しながら沙和子に答えた。 今朝どころか、この土日に佐山と会うこともなかった。せっかくの週末、ふたりきりでゆっくり過ごせると思っていたのに、佐山の都合で一度も会えずじまいだったのだ。「それで、佐山さんがどうか」「あれ。どうしたおふたりさん、こんなとこで雁首揃えて」 待ち伏せなんかをしていた理由を沙和子に訊ねようとした時、これも聞き覚えのある声が背中からかかって、秋口は少々ばつの悪い心地で振り返った。 案の定、開発課の入口脇でこそこそしている秋口と沙和子を不思議そうに眺めながら歩いてきたのは、御幸だった。「お……おはようございます」 沙和子がまた慌てたふうに御幸に頭を下げている。御幸は愛想よくそれに微笑み返してから、秋口の方を見遣る。「よう、お疲れさん」「……お疲れさまです」 秋口にとっては、どうにも具合の悪い組み合わせだった。ふたりとも、佐山に殴られてさんざんな目にあった場面に居合わせた面子だ。 あれからひとつき近くが経った今でも、秋口はこのふたりと顔を合わせると気まずい。佐山の拳を喰らった頬と腹が何だか痛んでくるような心地だ。「ふたりして、佐山に用か？」「ええ、まあ……」「いや、俺は……」 沙和子、秋口と、同時に煮え切らない相槌を訊ねた御幸に返すことになる。御幸はひょいと開発課の入口を覗き、気安い調子で中へ声をかけた。「佐山、ちょっと」「あ」 沙和子が慌てて止めようとしたようだが、すでに遅い。少しの間の後、佐山の声がした。「御幸？ おはよう、どうした」「んっ、あれ、おまえがどうした」 御幸が興味深そうな声を出したもので、秋口も、そして沙和子も釣られたように入口の方へ身を乗り出す。 沙和子が両手で口許を覆い、押し殺した悲鳴のような音を漏らした。「か……」「……」 秋口の方は、言葉を失って、沙和子と同じく現れた佐山のことを凝視してしまう。「どうしたって……見てのとおりだよ」 珍しく憮然とした声で答えながら廊下に出てきた佐山は、そこにいるのが御幸だけではないことに気づいて驚いた顔になった。「あれ、秋口……と、沙和子まで、どうかしたのか？」「可愛い、やだ……！」 沙和子の声にならない呟きは、佐山には届かなかっただろうが、隣にいた秋口には聞こえた。「何だおまえ、ずいぶんさっぱりしちまったなあ」 御幸が笑いながら、佐山の髪を指でぐしゃぐしゃ掻き交ぜた。 その仕種に嫉妬する暇もないほど、秋口は秋口で、沙和子同様佐山の様子に視線を釘づけにしてしまう。 金曜日の夜までは、少し邪魔なのではと思うくらいだった佐山の黒い髪が、今は短く切られて、もともと二十代後半には見えないその容貌をさらに幼く見せるような塩梅だった。「いい加減切らないとと思って床屋に行ったら、勝手に短くされたんだよ」 佐山が御幸の手を、少し邪険そうに振り払っている。やっぱり少し不貞腐れたふうでもあった。「触るなって、もう朝からさんざんからかわれてて……」 御幸に言いながら、秋口と沙和子の方にも目を移した佐山が、深々と溜息をついた。「いいよ、言いたいことはわかってる、大学生みたいだとか猿のようだとか……」 いや大学生どころかこれでは高校生では、と言い掛けた言葉を秋口は咄嗟に呑み込んだ。 その仕種に気づいた佐山が、自嘲的な笑みになる。「短くするとこうなるのはわかってるんだ、だからそこそこ邪魔にならない程度にって頼んだのに、床屋の人が『男なら短髪で』とか勝手に」 なるほど沙和子はこれを見にきたのかと、秋口はようやく腑に落ちた。朝にエントランスで受付嬢が社員の異変を目撃すれば、十分と経たずにそれは社内中に広がる。沙和子のところまで伝わるのだって、そう時間はかからなかっただろう。「いやいや、似合ってるって」「顔が笑ってるんだよ」 宥める御幸に、佐山が仕方なさそうに苦笑した。「――で、沙和子と秋口は開発課に用事？」 再び佐山が視線を移した先で、沙和子が申し訳なさそうに、だがしっかり笑って口許を抑えている。「……ごめんなさい、佐山さんが髪を切ったって聞いて、どうしても見たくなっちゃって」「見てどうするんだよこんなもの。大体沙和子は営業時代の惨事も知ってるだろ」「ああ、あの時もすごかったよな、切れって命令した部長が絶句して……いや、佐山もあれから数年経って、ずいぶんおとなびて」「だから顔が笑ってるんだって」 先輩三人の会話を聞きながら、秋口は黙り込んだ。 自分の知らない過去の話に入り込めなかったせいもあるし、それより何より――「秋口は俺に何か用だったか？」 黙りこくっている秋口の方をふと見上げ、佐山が訊ねる。「……いえ」 秋口は無表情になって首を振った。「雛川さんの様子が不審だったから声をかけただけです。俺は仕事があるんで、これで」「あ、うん」 素っ気ない自分の言葉に、少し戸惑ったふうになる佐山を置いて、秋口はその場からきびすを返した。 足早に廊下を進み、そのまま営業一課へ戻りかけてから、思い直して休憩所に入る。（……か……） 辿り着いた休憩所の自販機を思わず拳で殴りつけ、その拳に額を押しつけた。「可愛いじゃねえか……！」 わざわざ佐山を見に来た沙和子の態度にも、必要以上に（と秋口には思える）親しげな御幸の態度にも、腹が立った。 だがそのつまらない嫉妬心を見せてまた佐山に呆れられることよりも、髪を切った佐山の可愛さに頭に血が昇っている状態を見抜かれるのが怖くて、秋口は三人の前から逃げ出したのだ。（特に御幸さんに気づかれたら、また何言われるか） 気を落ち着けようと、秋口はベンチに座り、ポケットから煙草を取り出した。一本、口に咥えようとした時、人影が近づいてきたことに気づく。 佐山だ。「仕事に戻るんじゃなかったのか？」 少し困った顔で笑いながら問う佐山を見ないように、秋口は視線を逸らした。「仕事の前に一服」「……」「違います」 何か言いあぐねた佐山が、また呆れた顔をしているような被害妄想に捕らわれて、秋口は低い声で言い訳を試みた。「別にまた雛川さんとか御幸さんにいろいろ思ってるだけじゃ」「だけじゃ？」「……」 先を促す佐山を、自分から口を開いたくせに無視して、秋口は煙草に火をつけた。 その隣に佐山が腰を下ろす。ちらりと秋口が見遣ると、髪を短くしたせいで輪郭や耳がくっきりと現れている佐山の顔が間近にあって、少し動揺する。 そんな秋口のことを、佐山が眼鏡越しに見上げた。「他に何を怒ってるんだよ」「……」「秋口？」 秋口は項垂れ、煙草の煙と一緒に深々息を吐いた。「……佐山さんが可愛いのがムカつくんだよ」「……」 佐山はしばらく項垂れた秋口の横顔を眺めてから、前を向いて、同じように深く息を吐き出した。「俺に何と答えろと」「何とかならないんですか、その童顔」「……遺伝子に言ってくれ……」 佐山は途方に暮れた顔をしている。横顔をそっと見遣った秋口を、佐山もちらりと見返し、目が合ってしまった。 佐山が困ったように笑う。「伸びるまで会うのやめとくか？」「冗談だろ」「冗談だけど」「……」「だから切りたくないって言ったのに、床屋が勝手に」 ぶつぶつと呟きつつ、佐山はすっかり短くなった前髪を指で摘んでいる。「下手に繁華街歩いてたら、補導されるんじゃないですか」 どうにか自分を建て直そうと、秋口は佐山をからかってみた。 だが、いともあっさり頷かれてしまう。「そういう時のための免許証と社員証だよ」「……されるのか……」「……髭でも生やそうかな」「え、生えるんですか？」「生えるよ、何だと思ってんだよ俺を」「想像つかないっつーか……」 思わずまじまじと、秋口は佐山の口許を眺めた。生えるって言っても産毛じゃないのかと疑いたくなるような、綺麗な肌だった。これであと三年もすれば三十路に手が届くとは到底思えない。「……近いんだけど……」 みつめていると、佐山が困り果てた声で呟いた。その唇の動きも間近で見てしまった秋口は、ついそれに吸い込まれそうな気分で身を寄せた。 途端、大袈裟なほどの咳払いの音がして、秋口も、そして身じろぎせずにいた佐山もびくっと身を揺らす。「就、業、時間」 自販機のそばに御幸が立っていた。秋口は慌てて身を引き、佐山も勢いよく御幸のことを振り返った。「あ、ええと、沙和子は？」「もう総務に戻ったよ、佐山が秋口追いかけていっちゃったもんで、手持ち無沙汰な顔で」「……そっか」「まじめに仕事しろよおまえら」 それだけ言い置いて、御幸も自分の仕事場に戻っていった。「……」「……」 何となく、微妙な沈黙が秋口と佐山の間に降り立った。「――あ。秋口、煙草」 しばらくの無言を先に終えたのは、佐山。秋口は言われて、手にしていた煙草がすっかり短くなって灰を落としかけていることに気づいた。慌てて灰皿に捨てる。結局一口しか吸わなかった。「……土日会えなかったのって、ひょっとしてそのせいですか」「いや、部屋を大掃除しようと思って、途中まで作業してたんだけど、収拾がつかなくなったから諦めて不貞寝してた」「ああ……何だ、言ってくれれば手伝ったのに」 一週間前ほどに足を踏み入れた佐山の部屋は、相変わらずのカオスだった。 秋口が佐山の部屋を訪れるようになって以来、御幸がそこを掃除しに来ることは一度もないらしい。そのことに秋口はちょっと溜飲を下げた。我ながらおとなげないとは思いつつ。「でも秋口、ここんとこまた忙しそうだったろ。せっかくの休みなのに、俺のあの部屋の掃除なんかさせて過ごさせるのはちょっとと思って」「せっかくの休みなのに、佐山さんに会えない方が『ちょっと』なんですけど」「……そうか」 少し照れたような顔で目を伏せる佐山の表情に、秋口はにやつかないよう自分を戒めなければならなかった。「今日の夜でも、そんなに遅くはならない予定だから、手伝いに行きましょうか？」「いや駄目、さらに被害が広がってるから、今足の踏み場が」「前からなかったじゃないですか」「それ以上に……」「……あれ以上にか」「使わないものは押し入れにしまおうと思って、その押し入れに入ってるいらないものを処分しようとして中のものを出したら、懐かしい本とか出てきたりして」「読み込んだと」「学生時代に読んでたような雑誌なんか、もういらない気がするけど、でもそのまま捨てるには忍びないだろ。一回読んでから処分しようと思って」「読み返したらやっぱり捨てるのが惜しくなって」「そうそう」 笑って頷いてから、秋口が呆れ顔になっていることに気づいた佐山が、先刻とは違う意味で恥じ入って項垂れた。「わかってるんだ、これじゃ百年経っても片づかないって」「いっそ業者に頼んだらどうですか？ プロだったら慣れてるだろうし手際いいだろうし」「うーん……でもなあ、知らない人に部屋を触られるのは、嫌なんだよ」 以前に佐山は自分のものに人の手が入るのが嫌いだと言っていたことを秋口は思い出す。ものに執着するタイプだということも。「もしかして、俺が弄るのも嫌だから呼ばなかった？」 御幸には頼むのに、と少し非難がましい口調で訊ねた秋口に、佐山が首を傾げる。「だったら最初から部屋に呼ばない」 まあそりゃそうか、と秋口はすぐ納得した。大掃除とまではいかなくても、あまりに散らかっている佐山の部屋を、人が座れる程度に片づけたことは秋口にもある。その時も佐山は申し訳なさそうな顔こそしたが、迷惑そうにはしていなかった。「本当に、純粋に、致命的に、片づけるのが下手なだけなんだ」 そんなことを大まじめな顔で言う佐山が可笑しくて、秋口は笑ってしまう。「もう二日作業してくたくただよ。今日は秋口が手伝ってくれても掃除なんかしたくない」「じゃあ俺の家に来ますか？」 何の気なくした提案に、佐山がひどく驚いた顔になったので、秋口の方も釣られて驚いた。「え、いいのか？」「構いませんけど。あれ、そんな驚くところか……？」「だって秋口、今まで一度も家には呼ばなかっただろ」 そういえばそうだった。いつでも、会社帰りに寄るとしたら、佐山のマンションばかりだ。「だから、てっきり秋口は、部屋に呼びたくないんだって」「単に佐山さんの家の方が近いからですよ。ちょうど一昨日鍵も換えて、何の支障もなくなったし」「……『支障』」 自分の言葉をオウム返しにした佐山に、秋口は慌てた。「違いますって、そう言う意味じゃなくて」「そういうって？」「だから……」 ここで『今は合い鍵を持ってるような女はいない』とか、『急に部屋を訊ねてくる相手がいても鍵が違うから大丈夫』とか、そういう言い訳をするだけやぶ蛇になりそうだ。事実はそのとおりだとしても、秋口はとりあえずその説明はやめた。「亮人が勝手に合い鍵作って、人の家をホテル代わりにするもんから、無断で換えてやったんです」 だがこれも言い訳に聞こえやしないかと、秋口は内心冷や冷やした。そして、こんなことでも微妙な空気になる自分たちの状態に複雑な気持ちになる。 百パーセント自分が悪いとわかっているので、なおさら。「ああそうか、神奈川の自宅に帰るより楽だもんな」 佐山は納得した様子で頷いている。普段あまり不満を言わない人だから、それが心から納得しているのか、状況に合わせて頷いているのか、秋口には読めなかった。「亮人には、もう二度と合い鍵なんて作る隙を与えませんから。佐山さんも気をつけてください、あいつは油断ならないし」「うん？ 俺が、何を気をつければいいんだ？」 秋口はポケットから小さな袋を取り出すと、佐山の方へ差し出した。佐山は不思議そうな顔でそれを受け取り、袋を開けると、中に入っていた鍵に目を見開いた。「……秋口の部屋の？」「なくさないでくださいね」 驚いた表情になる佐山の反応が照れくさくて、秋口の口調はついぶっきらぼうなものになる。「なくさないよ」 佐山は大事そうに鍵を握り締めて、すぐにそう答えた。拳の中に鍵を握りながら、少し口許をゆるめている。 ここで人目がなければ、一瞬でも抱き締めたりキスでもしてしまおうかと魔が差し掛けた秋口の耳に、足音が届いてどうにか思い止まる。他の社員が休憩所の横を通り過ぎた。「――いい加減、仕事戻らないと」 佐山も人の気配に気づいて、まだ大事そうに鍵を握ったままそう言った。秋口も仕方なく頷く。名残惜しいったらなかった。（どうせ会社がひけたら会えるのに）「そうだ、佐山さんの鍵も預けてくれたら、残業してる間に片づけておきますけど」 半ば冗談、半ば本気で提案しながら立ち上がった秋口は、一緒に腰を上げた佐山の顔が不意に強張ったことに気づいて驚いた。 合い鍵を手に嬉しそうだった表情が急激に消え、どうしてか、かすかに視線が泳いでいる。 そこまで嫌がられることなのかと、結構な深さで傷つきつつ、それを表に出すのも癪で、秋口は何でもないふうに肩を竦めた。「冗談ですよ、別に嫌なら無理にとは」「……鍵なんて預けたら」「え？」 佐山は床に視線を落として呟いている。その声がうまく聞き取れなくて、秋口は眉を顰めると佐山の方へ少し耳を寄せた。「何ですか？」「家の鍵なんて渡したら、帰ってくるのを期待しなくちゃいけないだろ」「……佐山さん？」 『帰ってくる』という言葉の意味がわからず、それ以上に独り言のように呟く佐山が不安になって、秋口はさらに表情を曇らせながら佐山の肩を揺らした。 ハッとしたように、佐山がやっと秋口の方を見る。「大丈夫ですか？」 秋口が問うと、佐山はいつも通りの、穏やかな調子で笑った。「あー……うん、大丈夫。何か変なこと言ったな、俺」「……いや、聞こえませんでしたけど」 咄嗟に秋口は嘘をついた。そうした方がいいと思ったのだ。そっか、と佐山が笑って頷く。「じゃあ今日は、秋口の家でメシで？」「了解です」 頷いた秋口の腕をそっと叩いて、笑いかけると、佐山が休憩所を出ていった。「……」 秋口は何となくその後ろ姿を眺める。小柄で、頼りなくも見える背中。髪が短くなったせいでうなじが寒々しくて、秋口はそれを暖めてやりたい衝動に駆られた。（そういえば、俺は、まだ佐山さんのこと何も知らないんだな） そんなことを考えた自分に自分で驚いた。今まで『つき合った』相手には浮かばなかった発想だ。 知りたいと思ったこともなかった。適当な見てくれと、面倒のない関係と、好みの体があればそれでよかったから。 ――でも佐山だけはそうじゃないと考えるのは今さらだろう。 覚悟はとっくに決めた。決めたつもりだ。（もう失くすのなんて、二度と御免なんだから） 自分の胸の裡でそう確認を取ると、秋口も営業部のオフィスへと戻っていった。 それはさすがにどうなのか どうも朝から社内が浮ついているような気がしていたが、今日がバレンタイン・ディだということに、他部署の女子社員からチョコレートを渡されるまで佐山は気がつかなかった。「これ、よかったら召し上がってくださいね」 始業時間ギリギリに廊下で佐山に声をかけたのは、顔は辛うじて覚えているが、名前までは知らないような、営業事務の女の子だった。 チョコレートをもらったといっても、特に佐山に恋の告白などをするつもりでもなく、要するに『開発課の皆さんへ、営業部の女子一同より」という意味合いだ。開発課には女子社員というものが存在していなかったので、毎年、同じフロアにある営業部の子たちが気を遣ってくれている。「でも義理でも、もらわないより全然嬉しいもんだよな。うちはもうカミさんがくれないし。息子ができたら旦那なんて用なしだよ」 開発課に戻って佐山が預かったチョコレートを配ると、妻帯者の同僚がその包みを見ながらしみじみと呟いていた。「でももらってきたらきたで何となく機嫌が悪くなるから、面倒くさいんだよな。家には持って帰らないで隠しておこう」 いそいそと小さな包みをしまっている同僚たちを横目に、佐山はもう一度廊下に出た。仕事前に、休憩所でお茶を飲もうと思って歩いていたところを、先刻営業課の女子社員に呼び止められたのだ。せっかくなので、もらったチョコレートも朝食代わりに食べてみようか――と思いながら自販機に向かっている途中で、また女子社員に声をかけられた。「あの、佐山さん」 振り向くと、先刻とは違うが、同じ営業部の社員だった。さっきは一課で今度は二課。「ちょっといいですか」 また開発課の男所帯を気の毒に思った人の差し入れだろうか、と思って見守る佐山に、彼女がやはり複数の小さなチョコレート入りの箱の入った紙袋を手渡してきた。「これ、二課の女子からです。すみませんけどみなさんに渡していただけますか」「ありがとう、みんな喜ぶよ」 甘いものは結構嫌いでないので、佐山だってチョコレートをもらえるのは嬉しかった。パソコンの作業で根を詰めている時に、一粒二粒口に放り込むと、ちょっと疲れが取れるのだ。「あと、これ」 紙袋を持って、先に休憩所に行ってしまおうと歩き出しかけた佐山は、相手がもうひとつ小さな紙袋を差し出してきたのに首を傾げた。「あの、変な意味じゃないんですけど、前に佐山さん、パソコンのトラブル見てくれたでしょう？ だから、そのお礼に」「そんな、大したことじゃないし、気にしなくていいのに」 まだ一昨年入社したばかりの若い女子社員は、恥ずかしそうに慌てて首を振った。「気軽に受け取ってください。佐山さん甘いものお好きってうかがったので、これ、自分でも同じの買っちゃったんですけど、すごくおいしいんですよ」「そっか……じゃあ、ありがとう」 笑って、佐山は紙袋を受け取った。女子社員が、佐山に頭を下げて小走りに去っていく。 今日はあっちこっちでこんな光景が繰り広げられているんだろうな、と思いながら佐山は今度こそ休憩所へと向かった。 ◇◇◇ 「佐山さん、ちょっといい？」 昼休み、社員食堂からの帰り道に、沙和子に呼び止められた。 沙和子は振り返った佐山を手招きして廊下の隅、あまり人目につかなそうなところまで移動してから、背中に隠していた大きな紙袋を差し出してきた。「これね、クラシックショコラを焼いてきたの。少し甘さ控えめにしたのを、佐山さん好きだったでしょう？」「あー……」 これはさすがに佐山が返事に迷うと、沙和子もちょっとだけ苦笑気味に首を横に振った。「別に見返りが欲しいとか、そういうんじゃないのよ。最近お菓子なんて作ることもなかったけど、デパートで材料を売ってるのを見たら、うずいちゃって。父や弟や自分の分も作ったの。ついでに、佐山さんにもお裾分け」 沙和子の料理が絶品だったのを佐山は思い出す。たまに作ってくれた弁当も夕食も、差し入れてくれたケーキやクッキーも。しかも彼女は佐山の好みを熟知している。「御幸さんとか、お友だちに分けても構わないわ。ちょっとひとりじゃ食べきれない量かもしれないから」「……わかった、御幸もこのくらいの甘さなら、食べられると思うから」 少し申し訳ないなと思いつつ、それでも無下に受け取りを拒否するよりはと、佐山はそう言ってケーキの入った紙袋を受け取った。彼女が以前も作ってくれたケーキの味を思い出しながら、可愛らしくラッピングされたケーキの箱を見下ろす。 そんな佐山を見遣って、沙和子が微笑む。「でも秋口君にはあげないでね？」「え？」 ぎくりとして顔を上げた佐山にもう一度、上品な笑顔を向けてから沙和子は佐山に小さく手を振って去っていった。「……何で秋口限定？」 呟きつつ、佐山はあまり深く考えないことにした。 沙和子から受け取った紙袋をぶら下げつつ、佐山は廊下をぶらぶら歩くと、開発課を通り越して営業部のオフィスへ向かった。 途中で一課の方を何となく覗いてしまったが、今日は秋口は商談で夕方まで戻らないことを知っている。昨日一緒に食事をしている時に聞いたのだ。 一課を通り越し、二課のオフィスに辿り着くと、佐山は今度はその中を覗いた。「御幸」 ちょうど自分の席を立った御幸が、すぐに佐山の姿に気づいて、手招かれるまま廊下に出てくる。 御幸は片手に紙袋を提げていた。「あ、佐山、ちょうどよかった。今おまえのところに行こうと思ってたんだ」 特に打ち合わせもせず、佐山は申し合わせたように御幸と並んで非常階段の方へ足を向けた。分煙を通り越して禁煙化の進んでしまったこの会社で、現状唯一人目を気にせず煙草を吸える場所だ。 階段の踊り場で、御幸と並んでとりあえず一本咥えてから、そうだ煙草を吸うためだけに来たのではなかったのだと思い出し、佐山は沙和子から受け取った紙袋を御幸の方へ掲げて見せた。「これ、沙和子がクラシックショコラ作ってくれたんだけど、御幸にもお裾分けどうぞっていうから」 佐山の言葉を聞いて、御幸も煙草を咥えながら大仰に顔を顰めた。「おまえ、雛川さんがおまえにって手作りしたものを、俺に食べろと？」「沙和子がそうしろって言ったんだよ。甘さ控えめって言ってたから、たぶん御幸にも食べられる」「やめとく、本気で食べたら雛川さんに恨まれるに決まってんだろ。ったく、わかってるくせに」 御幸が溜息をつき、佐山は聞こえなかったふりで煙草の煙を吐き出した。「っていうか、俺は自分の分で手一杯。午前中だけで、自分のところの部署以外からもあれこれもらったし、外回りでも次々配られたし」 さすがこの広い社内でも一、二を争う色男と評判の御幸だ、例年のごとく両手でも抱えきれないほどのプレゼントをもらっているのだろう。「基本本命っぽいのと物品は断ってるんだけど、義理と取引先のは受け取らないわけにはいかないからな。悪いけど、今年もこれ頼まれてくれ」 御幸が手にしていたのも、やはり彼が受け取ったバレンタインのチョコレートだったようだ。 御幸と知り合って以来、甘いものが苦手な彼がもらってくる菓子類を代わっておいしくいただくのは、主に佐山の役割だった。「じゃあ、遠慮なく」 御幸がもらってくるのは、量より質や値段で勝負するタイプのチョコレートばかりだから、佐山はひそかに毎年楽しみにしていたのだった。「これで半年くらいおやつに困らないな」 御幸に手渡された紙袋は大ぶりで、中にはぎっしりいろとりどりの包みが詰まっている。（秋口もこのくらいもらってるのかな） 御幸と社内の人気を二分している男だ。そして秋口も甘いものが好きなわけではなさそうだったから、あまったらちょっと欲しいな、などと佐山は少々さもしいことを考える。「雛川さんのもおまえひとりで食べてくれ。ああ、秋口にあげてもいいかもな」「秋口にだけはあげるなって言われたんだけど」 煙草を吸いながら、御幸が納得したように頷いた。「ああ、雛川さん、秋口のこと嫌いだろうしな」「何で？」「俺と同じ理由に決まってるだろ」 それだけ答えて、煙草を吸い終えると御幸は踊り場を出て行く。「……」 佐山はやはり、あまり深くは考えないことにした。考えてもろくな答えが出そうになかった。 ◇◇◇ 「悪いけど、今年からは全部断ることにしてるから」 答えた瞬間の、相手の失望した顔に、これほど罪悪感を覚えるようになるなんて思ってもみなかった。「受け取ってくれるだけでいいんです、お返しとか期待してないし、あとで捨ても構わないから」 一度も食事に誘ったことも誘われたこともない、だが社内ですれ違ったことはあるので名前くらいは覚えていた女子社員だ。ゆえにそれなりの美人だった。 もし一度でも関係があれば、「誰とも、一切、個人的なつき合いは断る」という自分の方向転換を知らないはずがない。（それでも、喰い下がってくるのをひたすら断るよりは、ましか……） 以前の説明で一度引き下がったはずが、それに納得せず、バレンタインなんていうイベントで「他の子と駄目かもしれないけどわたしだけは特別」だと信じて突撃してくる相手よりも、こういう機会がなければ声をかけることすらできないほど晩稲な相手の方が、まだ扱いが楽だ。 そう考えてしまってから、秋口はこんなことを口にしたら、またあの人に『最低だな』と呆れられそうな気がして、自分を戒めた。「無理なんだ、ごめん」 小さく頭を下げた秋口に、相手は明らかに意気消沈しきった表情で、差し出した紙袋を下ろした。「やっぱり、本気の、本命の彼女ができたって本当だったんだ……」 肩を落として去っていく女子社員の後ろ姿を見送りつつ、秋口は軽く溜息をついた。 それから、さっと周囲を見渡す。 午後、営業部のオフィスから少し離れた廊下。開発部からはさらに遠いが、同じフロアにある以上、佐山に今の一幕を見られないという保証はない。 とりあえず自分の他に誰の姿もなく、秋口はほっと息を吐く。 今までつき合いのあった相手は、遊びを承知で後腐れなくを信条にしているか、自分の容姿がそれなりだとわかっている分プライドが高く、自分を袖にした相手になど二度と声をかけたくもない……というタイプがほとんどだったので、懸念していたほど社内での面倒はなかった。 それでも先刻のように、ひそかな憧れを思い切って告白した純真なタイプとか、一度ふられてもなおこちらを想い続けていた実は一途なタイプとか、そういう相手からのアプローチは複数あって、秋口はそのたびに気まずい思いをした。（まあ……自業自得か） 気軽に遊んできたから、その分今面倒を味わわなくてはならないのだ。 今までだったら、無理だと言っても諦めず言い寄る相手など、「みっともない女だ」と軽蔑して終わった。「だから俺に選ばれないんだよ」とも考えて嗤って、それで平気だった。 だが今は、想いを拒絶された時の痛みも、それでも諦められない気持ちも、充分知っている。嫌というほどわかっている。（……だからって応えるわけにもいかない） 何が一番大事かは、もうわかったつもりだ。 そう確認しながら、秋口は何も持っていない自分の両手を何となく見下ろした。 誰からも、プレゼントひとつもらわなかったバレンタインディなんて、物心ついてから初めてだ。「……くれたり……は、しないか、さすがに……」 呟きつつ、秋口はどこか浮ついた気分になっている自分を自覚している。 今日は仕事が終わった後、食事の約束をしている。時間が空きそうだったらと、声をかけてきたのは佐山の方だ。 週末だったらよかったのになと、今日が平日なのが恨めしく、それでも今日の仕事はなるべく早く終えてしまうために、秋口は早足で廊下を歩いていった。 ◇◇◇ 仕事が少し長引いて、会社を出た佐山がいつもの店に着いた時、秋口はもう軽い料理を頼んでつまんでいた。「すみません、腹減っちゃって。先にやってます」 ビールの入ったグラスも半分ほどに減っている。佐山はその向かいに腰を下ろした。 すっかり常連になったエスニック料理屋は、今日も結構な混み具合だった。その半数以上が男女のカップルに見えるのは気のせいではないだろう。カップル客には、バレンタインデーのサービスとして、食前酒がサービスされると入口に書いてあった。 男女のカップルでもなく酒も飲めない自分には無関係だな、と思いながら、佐山は店員に飲み物と料理を注文した。「開発忙しそうですね」 先に来たチャイを佐山が飲んでいると、冷やした蒸し鶏を食べていた秋口が、それを佐山にも勧めながら口を開いた。佐山はありがたくそれをつまみながら頷く。「年度末近いからな。営業も大変だろ」「うちは去年よりマシかな、二課の方はでかいプレゼンが直近であるみたいだから騒がしいけど」「あー、御幸がそう言ってたな」 とりとめない世間話をしながら食事を進めていく。佐山の頼んだ牛肉の甘味噌炒めなども秋口と分け合い、それなりにのんびりした、楽しい時間が過ぎていった。（最近穏やかで、いいな） ここのところ、秋口とは喧嘩も些細なもめごともない。穏やかな日常だ。こういう時の食事はおいしい。とてもおいしい。 いい気分で、食後のデザートにりんごのシャーベットまで食べている佐山のテーブルに、店の店主がやってきた。「こんばんは、いつもありがとうございます」 四十代か、もう少しいっているかもしれないが、ほっそりした美人の店主が、ふたりに向かって微笑みながら軽く会釈する。佐山たちもうまい料理の礼を口々言いながら頭を下げた。「今日はバレンタインということで、みなさんにプレゼントをしているんですけど」 店主が片腕に下げた籠を示しながら言った。佐山は頷く。「カップルへの」 だから自分たちには関係ないと思っていた。「カップルの皆さんだけではなくて、男性のお客さまにもチョコレートを配っていますの。よろしかったら、お客様方にも」「あ、すみません。ありがとうございます」 テーブルの上に置かれた、ラッピングされた手作り風チョコレートを見て、佐山はちょっとご機嫌になる。この店はデザートも美味い。これも会社のおやつにしよう――と楽しみにしつつ、会釈をして店主を見送った佐山は、目の前に座っている秋口が黙り込んでいることにようやく気づいた。 秋口は、憮然とした表情でテーブルの上のチョコレートを見下ろしている。「秋口？ どうした？」 あまり甘いものが好きではないから嬉しくないのか、だったら秋口の分ももらってもいいかな、などと考えつつ訊ねた佐山に、秋口はますます仏頂面になって、ぼそりと小さい声で何か呟いた。「……受け取るんだ」「え？」「俺がいる前で、他の人からのチョコ受け取るんですね、佐山さんは」 どうやら秋口の分ももらえるかも、というどころの話ではないようだった。 佐山は軽く首を傾げる。「いや、でも義理チョコだろ？ 他の人っていうか店からっていうか、単なるサービスの一環だろうし」「……他の人からも受け取りましたか」 何だか雲行きが怪しくなってきた。佐山は意味もなく食べかけのシャーベットをつついたりしてみる。「あー……まあ、会社関連とか、断る方がおかしいだろ？」「俺は全部断りましたけど」「えっ」「もしかして、雛川さんからももらったとか？」「……」 やましいところはないので嘘をつくのも違う気がしたが、秋口の機嫌が急降下しているのがいやというほどわかったので、佐山はとりあえず笑ってみた。「……」 秋口の表情がますます険悪になった。「……佐山さんて、どういう神経してるんですか」「いやだから、義理をわざわざ断るの変だろって。自意識過剰っていうか」 気まずくて、佐山はひたすらシャーベットを口に運んだ。「……」「お中元とかお歳暮とか、年賀状なんかと同じようなもんだろうし」「……」「ほら俺は、秋口とか御幸と違って、本命チョコとかはないわけだし……」 シャーベットが底を尽きて、手持ち無沙汰になってしまう。「……」「御幸なんて義理だけでも食べきれないって、半分くらい俺にくれたんだ」「御幸さんからも受け取ったんですか！？」「えっ？ 御幸からって、御幸がもらったののあまりだぞ？」 秋口は深々と、佐山が思わず身を竦めたくなるほど深々と大きな溜息をつくと、財布を取り出し、紙幣をテーブルの上に置くと、そのまま立ち上がった。「もういいです」「って、ちょっと、待てって」 佐山も慌てて立ち上がり、伝票と秋口の置いた紙幣を手に取って、その後を追う。 佐山がレジで会計をすませている間に、秋口はさっさと店を出て行ってしまった。佐山は会計を担当してくれた店主への挨拶もそこそこに、自分も急いで店を出て、秋口の背中を捜しながら道を走った。 幸い駅へ向かう道の途中で秋口の姿をみつけ、追いついたものの、しかし佐山は何と呼び止めてよいものかと、声をかけあぐねてしまう。「ええと」 とりあえず隣に並んで声を発してはみたが、後が続かない。 秋口は佐山が来たことに気づいてはいるだろうに、視線を向けようともせず、大股で早足に歩いている。 佐山はそれについていくために、ときどき小走りしなくてはならなかった。「……いくら他の人のつき合いに口出すなったって、この仕打ちはないと思うんですけど」 黙りっぱなしだったと思っていた秋口が、ようやく喋ってくれた。 不機嫌丸出しの声だった。（そうかなあ） 自分はそんなにひどいことをしてしまったのかと、顧みようとしたものの、佐山にはあまりそういう実感がない。 曖昧に首を捻っている佐山を横目で見た秋口から、苛立った空気が滲んでくる。「佐山さん言ったじゃないですか、普通に甘えたり甘やかされたりしたいって。そういうのを、今日やらなくていつするんだろうと思うんですけどね！」「今日って？」「バレンタインって、恋人同士のイベントでしょうが」「……あー……」 ここでようやく、佐山は秋口の態度が腑に落ちた。（そうか、秋口、俺と秋口でバレンタインをしたかったのか） 恋人同士のイベント、という発想が、佐山にはなかった。恋人がどうこうというよりも、男女のというか、「女の子が男の子にチョコを上げる日」という認識しか持っていなかったから、自分と秋口にそれが関わるだなんて、思ってもみなかったのだ。 ――などと説明しても、きっと秋口は機嫌を直してくれはしないだろう。 佐山は秋口の腕を掴んで、問答無用でその歩みを止めさせた。「何ですか」「ちょっと待ってろ」 秋口は佐山の手を振り払うこともなく、素直に立ち止まったが、眇になっている。「いいから待ってろって。ここにいろよ、帰るなよ」 佐山は秋口にそう念押しして、その場から身を翻した。道を一本入ったところにあるコンビニエンスストアに駆け込む。 そこで急いで買い物を済ませ、もっと急いで秋口のところに戻った。 秋口はまだ先刻と同じ仏頂面で待っていたので、佐山はほっとする。コンビニで買ってきた、可愛い紙袋に入ったチョコレートを秋口の方に差し出した。「ほら」「……」 秋口はにこりともせずに、佐山の差し出した袋を見下ろしている。有名な海外ブランドのチョコレート菓子と、花束を抱えた熊のマスコットが入ったピンクの紙袋には、白とピンクのリボンが飾られている。「コンビニのだけど、十四日の夜に、『この人誰からももらえずに自分で飼って見栄張ってるんだな』っていう店員の目に耐えて買った、勇気あるチョコだぞ」「……」「ほらって」 受け取ろうともしない秋口の手に、佐山は強引に紙袋を押しつけた。「バレンタインなんんて、女友達から義理チョコもらうイベントっていう意識しかなかったから、完全に人ごとだったんだよ、俺にとっては。……秋口だって、自分が俺に渡すって発想はなかっただろ？」 多分秋口は、はなから「佐山さんが俺にチョコをくれる」イベントとして、バレンタインディを認識していたのだろう。相手の態度から、佐山はそれを察している。（要するに何ていうか俺が『女役』だから、っていうか） 佐山の読みが図星だったようで、秋口は少しばつの悪そうな表情になっている。「……でも佐山さんは、もし俺からもらっても、別に嬉しくはないんでしょう」 腹を立てて不機嫌というよりも、拗ねた調子になって、秋口が言った。 苦笑したいのを堪えながら、佐山は首を横に振った。「俺は甘いもの嫌いじゃないし、チョコもらったら普通に嬉しいよ。だから義理チョコ断らないし」「……」「それに秋口がくれるなら、あたりまえだけど誰かからもらうのより嬉しい。チョコに限らず」 秋口が、佐山から押しつけられた紙袋を見下ろす。「……雛川さんより？」「うん」「御幸さんより」「うん」「俺が一番」「一番」 いちいち頷きながら、根気よく佐山が問い答えると、秋口の怒って強張っていた口許が、わずかに緩んだ。 佐山はそっと、紙袋を持っている秋口の腕を叩く。 道の真ん中で男ふたりがバレンタインディに何やってんだ、という疑問には、あえて気づかないように秋口に向けて笑いかけた。「来年はちゃんと用意するよ。他の人から義理チョコもらっても、あげるのは秋口にだけだから」「……俺も、来年は」「楽しみにしてる」 笑った秋口に、ようやく秋口の表情も綻んだ。（手がかかるなあ） どうやら秋口の機嫌が直ったらしいことに安堵しつつ、佐山は内心でこっそり溜息をつく。 今までこっちをさんざんな目に遭わして起きながら、今はこういう態度なのかと呆れながらも、多分それなりにこっちの気持ちを配慮してチョコレートの受け取りを拒否したという秋山のことを、可愛くも思う。（別にチョコくらいで俺は怒らないし、相手にも悪いから受け取ってもいいんじゃないかとは思うけど……） しかしそれを言ったら、せっかく上向きになりかけた秋口の機嫌を徹底的に損ねるだけだとわかっていたので、佐山は黙っておいた。「じゃ、帰るか」 佐山が促すと、秋口が頷き、ふたりで駅の方へ向かい再び歩き出す。「……これから、佐山さんち寄っていいですか？」「え、別にいいけど、明日会社――」 言いかけてから、佐山は気づいて一度言葉を止めた。 きっと秋口は、特別な日なので一緒にいたい、というようなことを考えているのだろう。 佐山にしてみれば、別に特別な日であろうとなかろうと、秋口と楽しくいられるのは常に大歓迎なので、断る理由がない。「泊まる？」 こちらから訊ねると、秋口が少し嬉しそうな顔になったから、佐山も喜んでおくことにする。 秋口との初めてのバレンタインは、そんな感じで、佐山にとってある意味で忘れがたいものになった。（コツは覚えたから、来年はもっとスムーズに） そんなことを心に刻みつつ、佐山は秋口と並んで自宅へ向かった。

こころなんてしりもしないで・番外編

と、おまけ。/それはさすがにどうなのか

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