秘密

 反省室に泊まると言った嘉彦は、当然のように昼過ぎになっても部屋には戻って来ずに、昼食を終えて食堂から帰ってくる途中、真実は寮監のひとりに呼び止められた。
「相沢、鴫野はどこに行った」
「知りません、今朝は姿見ましたけど」
 他の人には言うなと言われたから、真実はすぐにそう嘘をついた。寮監はもう一度、本当に知らないのかと真実に詰問口調で訊ねた後、再び否定の言葉を聞いて勢いよく舌打ちした。
「いいか、もし鴫野をみかけたら、客が来てるから大至急来賓室に来るよう伝えろ」
 寮監は頭ごなしに真実へそう命令してから、慌ただしく廊下を走っていった。
(来賓室?)
 日曜日は、寮生の家族が面会に来られる日だ。面会に来る家族は滅多になかったが、ごくごくまれに訪れた場合は面会室に通される。
 だが、嘉彦の客とやらは、来賓室に通されたというくらいなのだからただの家族ではなく『来賓』なのだろうか。
(ひょっとしてあいつ、それ知ってて逃げたのか?)
 ふと、真実の脳裡にそんな推測が浮かぶ。今朝のさっきで、反省室行き。帰ってきてから一度部屋を出た時、客が来るのを寮監に知らされたのかもしれない。嘉彦にとっては嬉しくない、あるいは都合のよくない相手が。
 先刻御倉のことで助け船を出してもらった恩義があるから、真実はその後も何度か寮監に嘉彦の行方を訊ねられたが、すべてに「知らない」「わからない」で首を横に振った。
(……でも、誰なんだろう。ずいぶんしつこく捜してるなあ)
 食事の後もぼんやりと勉強を続けながら、真実は主のいない嘉彦の学習机に目を遣った。
 部屋のドアがノックされたのはその時だ。
「はいはい」
 また寮監だろうとおざなりに返答してドアを開けた真実は、そこに予測していたものとは別の人間を見て、そのまま動きを止めた。
「ここが鴫野嘉彦の部屋かな?」
「――あ……はい、そうです」
 真実の目の前に立っているのは、寮監でも寮生でもなかった。生徒の父親というには若く、兄弟というには大人に見えるスーツ姿の男性。日頃スーツなんて見慣れない真実にもわかるほど、彼の身につける衣服や時計などの装飾品は高価そうなものだった。ハッとするほど上品で、センスもいい。
 真実がこれまで見たことのない類の人間に見える相手が、しかし、どこかに見覚えのある気がして真実は少し首を傾げた。
「あの、あなたは……」
「嘉彦の父親ですよ」
「え」
 微笑をたたえながら答えた男性を、真実は目を瞠って見上げた。
 どうしてだか、それは意外な答えのような気がしたのだ。
 言われてみれば、男性と嘉彦はよく似ていた。驚くほど整った容貌に、怜悧さを感じさせる眼差し。男性の方が歳の分か、嘉彦よりもずっと落ち着いた空気をまとってはいたが。
 まじまじと相手を見てしまってから、真実は、そこでようやく彼をどこで見たことがあるのかを思い出した。
 テレビだ。つい最近は娯楽室に置かれた雑誌にも載っていた。
(鴫野、何だっけ……そうだ、京介)
 その若さと容姿のせいで、ニュースよりもワイドショーに映像が流れることが多いと言われる代議士、鴫野京介。本人がそういったテレビ番組に進んで露出することはまったくないというのに、隠し撮りのような写真や映像、発言が次々テレビで流れている。だから真実も彼の存在と名前を知っていたのだ。
「あ……すみません、今、鴫野くんは外出中で」
 真実の返答に鴫野は動じた様子もなく、そうか、と微笑を浮かべた。
「仕様のないやつだな。私が来ることは、もう今朝伝えてあったのに。どこに行ったのかはわかるかい?」
「行き先は特に聞いていないので……」
 この人にも嘘をつくべきなのか、それとも嘉彦の居場所を教えるべきなのか。
 真実は迷って、とりあえず鴫野が来賓室の方へ戻ったのを確認してから、周りの目を憚りつつ急いで階上の反省室へと向かった。
 下のフロアにいる人間に声が聞こえないように、ドアの外から控えめな声で嘉彦を呼ぶ。何度かそれを繰り返してみたが、中からは何の音沙汰もない。
 ひょっとしてさらにここからどこかへ移動してしまったのだろうか。どうしよう、と思案しながら何気なくドアノブに手をかけた真実は、反省室の入口に鍵が掛かっていないことに気づいた。
「――鴫……」
 やはり控え目に声をかけようと口を開いた真実は、目の前に見える光景に言葉を失い、入口のすぐ側で立ちつくす。
「あれ……相沢センパイ?」
 反省室に真実が入ったのはこれが初めてだ。もっと寒々しく陰惨な雰囲気を想像していたのだが、そこはただの畳敷きの小さな部屋だった。小さいというところで『反省室』らしさが出ているのかもしれない。
 そしてその床の上には大きなひとりがけのソファが置かれていて、そこに鴫野嘉彦がゆったりと腰を下ろしていた。
 嘉彦はシャツ以外ほぼ何も身にまとわない格好で、長い脚を組んでソファにもたれかかっている。
 シャツのボタンすらすべてはだけていて、真実のいる位置からはしどけなく乱れたシャツや組まれた脚しか見えなかったが、それがとんでもなく扇情的なシーンであるということはよくわかった。
 嘉彦の足許には、真実の知っている人物が跪いていた。
 数人いる寮監のうちのひとりで、中でももっとも体格が貧しく、地味で目立たない村瀬という男だった。すぐに頭ごなしな怒鳴り声で生徒たちを押さえつけようとする寮監の中で、ひとり気弱げな姿から、生徒たちにすら馬鹿にされている。
 村瀬は現れた真実の姿に顔色を蒼白にしていたが、まだ床に膝をついたまま体を嘉彦の方に向けていた。村瀬の方はきちんと洋服を着込み、一糸乱れる様子もなかった。
「どうしたの?」
 嘉彦は平生とまったくと変わらない態度で、真実に呼びかけてきた。大人の前で服を脱ぎ、薄いシャツ一枚まとっただけの姿をさらしているところを、同じ寮に住む人間に見られたというのに。
「あ……おまえのお父さん、来てるんだけど。いいのか、会わなくて」
 嘉彦が普通の態度を貫いているから真実も内心ほどには狼狽えた態度を出さなくて済んだ。
「ああ。いいんだ、放っておいて」
 真実に答えた嘉彦の口調はあっさりしていて、慌てる素振りもない。やはり父親が来ることを事前に知っていたのだろう。
 嘉彦は真実から足許の村瀬に目を移して、それから、口許で微笑んだ。
「村瀬さん? もう、いい?」
「……ああ」
 真実が部屋に入ってから始めて、村瀬が口を開いた。
 ただの相槌のみだったが、真実は村瀬の声を始めて聞いたような気がする。真実にとっては担当も違うし(フロアごとに担当の寮監が割り振られていた)馴染みのない人間だ。
 嘉彦が身を屈めてソファの下に落ちていた衣服を拾おうとすると、先に村瀬の手が伸びてそれを取った。村瀬が差し出す衣服を、嘉彦は手を引いて、笑みを消した表情になると見下ろす。
「今日も触らないの?」
「……」
 村瀬は嘉彦の問いには答えず、黙って俯いている。
 嘉彦はふっと目を細めると、出し抜けに素足で村瀬の顔を蹴りつけた。思わず、見ていた真実は首を竦めてしまう。
 大した強さではなかったのに、嘉彦の蹴りのせいで村瀬が畳に倒れ、その姿を見下ろし嘉彦が優しく微笑みをまた浮かべた。
「ほんっと、虫ケラ以下だねあんた。今すぐ死ねば?」
「……愛してるんだ」
 ――自分が見ていい情景ではない。
 起き上がることも適わないまま、這いつくばって嘉彦の脚に縋る村瀬に、真実は目を逸らした。
「いいよセンパイ、あんたが出ていかなくても」
 ふたりに背を向けて部屋を出ようとした真実を、嘉彦が気配で察して呼び止める。
「見ててやってよ、この人のこと。惚れた相手ひとり抱くこともできない不能が」
「……おまえを俺なんかの汚い欲望に染めることなんてできない」
「何言ってんの? 気持ち悪いんだよ、酔ってんじゃねぇよバーカ。何回も言ってるだろ、俺はあんたと以外なら何人とでも何回もセックスしたことなんてあるんだよ。今さら汚れるもクソもねぇんだよ」
 おかしげに笑いながら、嘉彦が足許にまとわりつく村瀬のあちこちを爪先で蹴っている。
 真実にはとても見ていられず、耳を塞ぎたい心地で目を逸らした。
 何度も嘉彦に蹴りつけられるうち、耐えかねたのか村瀬が立ち上がり、転がるように部屋を飛び出していった。ドアの前に立っていた真実は、村瀬に押し退けられるような格好になり、そのまま嘉彦の座るソファに近づく。
「――笑えるだろ。あの人、俺のこと愛してるっていいながら、手を握ったことすらないんだぜ」
 ソファに凭れたまま、嘉彦が笑って真実に言った。
「で、何してると思う? こうやって人の服脱がせて、いつも一晩中ただ見てんの。そっちの方がよっぽど変態だよなあ」
「……でも、鴫野はそれにつき合ってるんだ」
「そうだよ。だって俺も、村瀬さんのこと愛してるし」
「え」
 言葉に詰まる真実を見上げて、にっこりと、嘉彦が笑って見せた。
「村瀬さんは弱くて狡くて卑怯だけど、優しいしいい人なんだ」
「……」
「ちゃんと抱いてくれるなら、いつだって俺は村瀬さんとどうにでもなる覚悟なのに」
 嘉彦が今度こそ自分の服を拾い上げ、ソファに腰を下ろしたまま身につけていく。
 真実は彼の方に歩み寄った。
「何で体がないと駄目なんだ?」
「センパイ、セックスしたことある?」
「……あるよ」
「じゃ、わかるだろ」
 嘉彦に問われた刹那、体を包む熱の存在を思い出して真実は微かに震えた。
 抱き締めあって、接吻けて触れ合って体の中を犯されて、それが幸福だった時の記憶が鮮やかに蘇って、嘉彦に頷いてみせるしかなくなる。
 誰かを大切に感じる心はたしかに存在すると真実は知っている。相手に傾ける熱情もそれが等しく自分へと返される奇蹟が存在することも。
 そして誰かを想うのは心の問題だと間違いなくわかるのに、それだけでは足りなくなる貪欲さ。
 心が触れ合うだけでは足りないと、どうしても思ってしまう。
(……だから寂しいんだ)
 離れていても、気持ちが変わるだなんて疑ったこともないのに。
 それでも夜にひとりで眠ることが寂しくて、肌に直接触れる熱を切望してしまう。
「今、誰のことを考えた?」
 ソファから自分を見上げる嘉彦の声に、真実は我に返る。
「え……誰、って」
「すごい顔してたよ、センパイ」
 すごい顔、というのが具体的にどんなものなのか嘉彦は言わなかったが、真実は彼の言わんとすることを察して顔を赤らめた。嘉彦の前に出ると、自分はこんな反応ばかりしてしまうと真実は恥じ入る。
「センパイはさ、……」
 そんな真実へ何か言いかけた嘉彦の声が、不意に止まる。ドアの方から物音がしていた。
 真実も同じ方を釣られるように見遣り、開いたドアの向こうに見覚えのある姿をみとめる。
「何て格好してるんだ、嘉彦」
「――お父さん」
 まだシャツのボタンは開いたままの嘉彦が、どこか渇いた声音で呟いた。
 鴫野京介が、ゆっくりと真実の隣を通り抜け、息子の側まで歩み寄る。嘉彦は服を着かけた格好のまま、みじろぎもできない風情で指先を止めている。
 父親の顔を見上げる嘉彦の顔色が、先刻までとまるで変わり、真っ白になっていることに真実は気づいた。嘉彦は明らかに怯えている。
(父親に?)
「君は、池内くん? 相沢くんの方かな」
 鴫野は嘉彦の前へと回り込み、手を伸ばしてそのシャツのボタンを留めてやりながら、そう口を開いた。身を強張らせ、蒼白な顔になる息子の様子を、気にも留めていない様子だった。
「相沢です」
「じゃあ、相沢くん。嘉彦はこれから私と食事に行くから、消灯前には帰ってくると、寮の方に伝えてもらえるかな」
 真実は咄嗟に、嘉彦の方を見た。
 嘉彦は鴫野に衣服を治され、まだ固まったように動かないでいる。
「……わかりました」
「嫌だ」
 真実が頷くのと同時に、嘉彦の掠れた声が言った。
「嫌だ、寮に残る。お父さんとは行かない」
「どうした、嘉彦、我儘を言って。君らしくもない」
 鴫野は嘉彦の着衣を綺麗に治してしまうと、屈めていた身を起こして、優しく嘉彦の頭を撫でた。
「外に氷室を待たせてある。すぐに支度をして来なさい」
「……」
 嘉彦はもう反論せず、ただ諦めたように細く息を吐くと父親に頷いて見せた。
 真実は連れだって部屋を出ていく親子の姿を、黙って見送った。

おうちのひみつ

Posted by eleki