秘密

 嘉彦は大丈夫だろうか。
 鴫野は出がけにああ言ったが、消灯時間を過ぎても嘉彦はまだ帰って来ず、点呼を済ませて部屋の電気は寮監の手で切られた。
 部屋のベッドは三方の壁へ寄せて配置していある。真実の向かいで池内が小さく寝息を立てていた。真実と池内のベッドの間にあるのが嘉彦のベッドで、今は勿論空だ。
(ずいぶん、怯えてるみたいな感じだった)
 目を閉じても真実は眠れなかった。消灯時間から一時間は経とうとしているのに、上手く寝つけなくてただいたずらに寝返りを繰り返す。
『センパイ、セックスしたことある?』
 寝返りを打つ途中、不意に嘉彦の言葉が蘇って真実は溜息をついた。
 ささいな言葉だったのに、真実の体に埋められたままの熾火のようなものが、ゆっくりと起きてくる。
『――真実』
 そして次に蘇るのが、あの声。
 真実が誰よりも愛しいと思った、彼の言葉。
 ただの一度も、愛しているとか、好きだなんて口にしなかったのに、その想いは確実に真実の中に根づいている。自分のものも、相手のものも。
 それから思い出すのは触れられる感触。
 優しかった時も、ひどくされた時も、彼にされること何もかもが真実の快楽になった。
「……」
 暗がりの中、真実はじっと息を殺して部屋の気配を窺った。
 池内はもう規則正しい寝息を立てている。起きる気配はなかった。
 今は、嘉彦もいない。
 真実は右手を寝巻きに触れ、そろそろと下着の中へ差し入れた。
「……ん」
 自分で直接触れると、もう小さく吐息が漏れた。
(裕司の手はもっと大きかった)
 目を閉じて、真実は想像する。
 自分に触れる裕司。重なる吐息。低く囁く声。真実よりも年下なのに、声変わりも相手の方が早かった。
 もう中心は熱を持ち、固くなりかけているそれに触れるだけでは足りなくて、真実はそっと反対の手をTシャツの中に忍ばせて胸の突起に触れた。
「……っ……」
 横を向き、唇でたぐってシーツを噛み、声を殺して真実は自分に自分で触れていった。荒くなる吐息を堪えて快感を追う。
『――真実』
 想像の中で、あの声が真実を呼ぶ。
 想像だけなのが悲しかった。
 どれだけ相手を想おうが、今実際自分に触れているのが自分なのが寂しかった。
「……裕司……ッ……」
「ねえ、裕司って誰」
 熱を持って固くなった中心を、夢中になって扱いていた真実は、出し抜けに闇の中から声が聞こえてぎょっとした。
 部屋に人が入ってきたことにも気づかないほど、熱心に自慰行為に耽っていたのか。
「楽しそうだね、センパイ」
 もう一度聞こえた声は、思いのほか近くにあって、気まずさと羞恥に真実は夜目にもわかりそうなほど赤面した。
「ご……ごめ、鴫野……」
「謝らなくていいよ、みんなやってることだろうし」
 笑っている声で答えながら、嘉彦が真実のベッドへ腰を下ろす。泣き出しそうに羞恥を覚える真実を見下ろし、そっと、嘉彦の掌がその額を撫でた。
「俺、してあげようか?」
「え――」
 何を、と問い返すより早く、嘉彦の体が覆いかぶさってきて、唇が真実の唇に重なった。
「ん……ッ」
 驚いて身を捩ろうとするが、片手に顎を捕らえられてそれが適わない。顎をこじ開けられ、嘉彦の舌が唇の間に入り込み、遠慮なく口中を犯した。
「こっち、途中だろ」
 深い接吻けの合間に下着の中に入ったままの真実の手を辿り、嘉彦の指先もその場所へ触れた。真実は大きく身震いして、それから、両手を使って渾身の力で嘉彦を押し抜けようとした。
「ゃ……やだ、やめ……鴫野、……ッ!」
「しっ。池内起きちゃうぞ」
「だって、やだ……っ、……ぁ……」
 思いのほか強い嘉彦の力が真実の体を押さえつけ、その手が強引に下着の中で蠢いている。
「何で……鴫野、お願いだから……ッ」
 もう啜り泣きのような呼吸になって、真実は震えながら懇願した。
 裕司に触られているわけでもないのに反応してしまう自分の体が、情けなくて涙が零れた。
 誰の手でもいいわけじゃない。それなのに刺激されれば、長らく他人に触れられることのなかった体が飢えを自覚する。
「……裕司……裕司……」
 救いを求めるように名前を呼ぶと、ふと、嘉彦の力が弱まる。
「裕司って誰?」
 間近で真実を見下ろしたまま、嘉彦がまたその問いを口にした。
「……弟……」
 目を閉じ、細く真実は答える。
「裕司以外に触られるんじゃ、嫌だ……」
 静かに、嘉彦が真実の下着の中から手を引き抜いた。
 真実はきつく目を閉じて、快感の波が過ぎ去るのを待とうとする。
 嘉彦はまだ真実のベッドの端に腰を下ろしていたが、もう真実に触れてくる気配はなかった。
 まだ火照った体を持て余し、真実は嘉彦に背を向けてどうにか落ち着くのを待とうと自分を宥めた。
「センパイがここに来たのって、その弟のせい?」
 嘉彦が、ひっそりした声で問いかけてきて、真実はベッドに横たわって目を閉じたまま頷いた。
「親にばれて……引き離された。嫌だったけど、本当は俺と裕司のこと離れさせる親のことなんて信じられないくらい憎めたけど……でも、裕司が高校を卒業すれば」
 この学校に来て――それまでも、決して誰にも話すことのなかった正直な心境。以前の学校でできた親しい友達にも、それを説明することはなかった。
「ふたりとも大学生とか、社会人になったら、親に従わなくても一緒にいられるようになるから。その後の長い時間をずっと裕司と過ごすためだったら、今の何年かくらい離ればなれになったっていい」
 裕司に恋をしていることも、裕司も同じ気持ちだということも、親にばれて家族は壊れた。
 母親に溺愛されていた弟は家に残り、真実はこの寮に押し込められ、家族の誰とも――裕司とも、会うことを許されず。
 壊したのが自分だということは誰よりもよく真実自身がわかっていたが、それでも真実には自分の選択を悔やむことができなかった。
 誰を泣かせても、傷つけても、ひどい目に遇っても 裕司と一緒にいることができるのならばどんなことにも目を瞑ろうと決意した。
「ああ、なるほど。そういうところ、殉教者みたいだと思ったんだ。病気みたいにひとつのこと信じてる」
 ひとりごとにも近かった真実の告白を訊いて、嘉彦が納得したように頷いた。
「――鴫野は」
「ん?」
 真実から問いかけると、嘉彦が自分の方を向いたのが声の感じでわかった。
「何でお父さんに怯えてるの」
「……」
 一瞬嘉彦が黙り込んでしまってから、そんな自分を悔やむように自嘲気味、溜息をついた。
「さっきまでさ。お父さんと寝てた」
「……え?」
 顔だけ、寝転んだまま真実は嘉彦を見上げる。嘉彦も真実を見ていて、視線が合った。
 『寝てた』という言葉が、ただ眠る以上の意味を持つことなんて、すぐにわかった。
「別に、無理矢理乱暴にってわけじゃないぜ? それで怖がってるわけじゃない。ただ……」
 嘉彦は真実から、窓の外におぼろに見える月に目を移した。
「あんな奴に触れられたいとか、愛されたいって思ってる自分が許せない」
 嘉彦の声は、夜に紛れてしまいそうにささやかで、小さなものだった。
「……どうして?」
 つられて真実も囁くような声になりながら、重ねてそう訊ねる。
 ふと、嘉彦が笑った気配がした。
「十年以上顔も見ないで放っておいた息子、顔が好みだからって抱くような男だぜ。しかも自分と似てる子供を。ただのナルシストの変態だ」
「……村瀬さんのこと好きなんじゃなかったのか?」
「好きだよ。あの人が優しくしてくれれば……あの人じゃなくても、誰か優しくして俺だってことわかって俺のこと抱いてくれたら、俺はそれだけで倖せになれると思うのに。そうしたら、あんな父親なんかに心が向かわないで、最低な男だって蔑んでいられたのに」
「……」
「お父さんに見られると、気が変になりそうになる。村瀬さんには、たとえどんな姿でも見られたって平気なのに……あの人には、ただ見られてるだけで体の芯がぞくぞくして、止められなくなるんだ」
「それ……お父さんに言ったのか?」
 真実が訊ねると、嘉彦がまた息を吐くように短く笑った。
「言ってどうすんの? 飽きるまでは言うことを聞くので構ってくださいとでもつけ足す? どうせすぐ飽きるのに。十年以上放って置いたオモチャがたまたま自分の好みに成長したからって、平気で犯せるような人間なのに」
 どうして、と呟いた声はやはり笑っているのに、真実は嘉彦が泣いているのだと思った。
「……どうして、村瀬さんは俺のことちゃんと愛してくれないんだろ。崇拝なんてしてほしいわけじゃない。誰かとぐちゃぐちゃに駄目になったっていいのに――どうして俺は、どうしてもお父さんが相手じゃなくちゃ嫌なんて思うんだよ」
 真実はゆっくり起き上がり、ベッドに座って両手で顔を覆う嘉彦の細い背中をみつめた。背中は小刻みに揺れている。
「矛盾してる。あの人と一緒にいたってなにひとつ倖せになれないことも、ちゃんとわかってるのに。なのに一緒にいたくて……今日姿を見ただけで泣けてきそうなくらい嬉しくて、待つなんてこと今まで知らなかったのに、一度知っちゃったらもう諦め切ることもできなくて……」
 泣いているのか、それとも嗚咽なのか、わからない声を嘉彦が喉から零す。
「一緒に暮らすんだって、これから。寮を出てお父さんと同じ家に暮らすんだよ、今さら……どうしろっていうんだか」
「……」
 真実には何も言えなかった。
 真実の告白に嘉彦が何も言わなかったように。
「……鴫野がいなくなったら、寂しくなる」
 ようやく、小さな声を真実は嘉彦に向ける。
 月明かりの加減で、振り返った嘉彦が笑ったのが、今度ははっきりと真実の目に映った。
 泣き出す一歩手前の、無防備な子供みたいな笑顔だった。
「俺も、センパイと会えなくなるの、寂しいよ」
 同じ部屋でずっと暮らしながら、嘉彦が自分よりも年下の、年相応の人間に見えたのは初めてだ。
 抱き締めてあげたかったけれど、真実は手を伸ばさなかった。自分には何もできない。それを知っている。
 黙りこくった真実に、嘉彦もそれ以上何も言わずにいた。
 しばらくの静寂を先に破ったのは、嘉彦の密かな笑い声だった。
「あーあ、だいたい、ここで普通は俺のこと抱き締めたりキスしたりするもんなんだぜ?」
「……俺、好きな人いるから。その人が一番大事だから、できない」
「優しいね、センパイ」
 真実の正直な言葉に嘉彦は傷つくこともなく、心からそう思っているだろう言葉を返した。真実は急に泣きたくなったが、ただ黙っていた。
「そろそろ寝るよ」
 嘉彦が真実のベッドから立ち上がると、自分のベッドへ戻り、無造作に服を脱いで布団の中に潜り込んだ。
「……おやすみ」
「おやすみー」
 ひらひらと、真実の言葉に応えて嘉彦がベッドから片手を出して振る。
 そういえばこれが初めての「おやすみ」だと、気づいて真実は何とも言えない気持ちになった。いままでこんなあたりまえの挨拶すら、嘉彦と交わしたことはなかった。
 ――この先どうやって耐えていくのだろう。
 ただ、それだけ気に懸かった。

おうちのひみつ

Posted by eleki