秘密

 あの夜から一週間もしないうちに、嘉彦の転校と退寮の手続きは整ったようだ。
「来週、出てくんだ」
 もとから荷物の少ない嘉彦の机やロッカーの周りは、もうちりひとつないほど片づいていたから、本人に宣言されなくても真実には近々彼がいなくなることはわかった。
 土曜の夜、寮の中は相変わらずひっそりしていて、外には細く雨が降り出している。
「……やっていける?」
「他にないだろ」
 控えめな真実の問いに答えた嘉彦の言葉は、前向きになろうとした結果なのか諦めたせいなのか。真実にはわからなかった。
 四日前、嘉彦より一足先に村瀬が寮を出ていった。
 『反省室』で薬を飲み、手首を切った姿が他の寮監によって発見され、病院に運ばれてそのままだ。
 幸い命に別状があるほどではなかったが、もう仕事に復帰するのは無理だろうと噂になっていた。
 嘉彦は村瀬の見舞いに多分一度も向かわないうちにこの土地を離れる。
 そこに、真実は何かしらの彼の決意を感じ取っていた。それが何かはわからない。きっともう真実と嘉彦はこの先関わることがないだろう。好奇心とか、その場の心配や同情で相手の心に踏み込むことが罪悪だと思えた。
 最近ずっと、消灯時間を過ぎて布団を頭から被っても、真実は眠ることができなかった。
 いろいろな想いが胸の中を過ぎっていく。自分のこと以外で眠れなくなるのはこの寮に来て以来始めてだったが、そのせいで裕司に会いたくて会いたくて変になりそうだったから、結局は自分のことしか考えられない人間なのかもしれないと真実は思う。
 ――初めて、不安を覚えた。
 これまでは確信があった。自分と裕司がまた必ず一緒にいられるようになると。また会えると、裕司にも言った。
 気持ちが変わることは考えられない。自分はもちろん、裕司が他の人に心を向けるなんていうことは、ありっこないと、自分でも笑えるくらいの一途さで真実は信じていた。
 なのに今、どうしようもなく不安だ。
(会いたい……)
 衝動ですべてを壊してしまうことがどれだけばかげているか、わかっているつもりだ。
 一度、真実は裕司と家を出て遠くへ逃げた。
 けれども結局、それが今の自分たちにとっては何の解決にもならないとわかってしまったから、今こうして自ら裕司と離れることを選んだのだ。
 自分が間違っているとは思えない。
 でも。
 ――会いたい。
(会いたい、会いたい、会いたい)
 たった今、全部投げ出して裕司のそばにいって、抱き締め合えたらどれほど幸福だろう。
 寂しさで気が狂うのと、嬉しくておかしくなるのと、どちらが幸福だろう。
 そんなことを繋がった鎖のように毎晩考え続けていた真実は、とうとう明日は嘉彦が寮を出ていくという前の日の夜に、ふと窓の外に葉擦れの音を聞いて、軽く閉じていた瞼を開いた。
「――何?」
 同じ音を聞いたのか、嘉彦も怪訝そうに呟き、上半身をベッドに起こしている。
 コツンと、窓に小さな固いものがぶつかる音がしたのは、うるさそうに池内が寝返りを打った時。
「……」
 真実は静かにベッドを抜け出し、そっと窓辺に近づいた。嘉彦もベッドを下りているところのようだった。 
「何だ?」
 コツ、コツ、と音は断続的に続いている。
「ライトとか、あったっけ」
 囁き声で嘉彦が真実に問うて、真実は「そうだ」と思いついて手探りで自分の机に近づいた。たしか小さなペンライトを入れておいたはずだ。暗闇の中、机の抽斗を開けて片手で探る。
 ペンライトよりも先に、固い紙のような物が指先に触れて真実はハッと胸を突かれるような心地になった。
(まさか)
 馬鹿馬鹿しい、とすぐさま浮かんだ思いを打ち消す。
 ――今日は何日だ?
 思いついたら、心臓が壊れそうなほど早鐘を打った。
 一年前の今日、同じくらいの時間に、家を出た。裕司とふたり、手を繋いで何もかも捨てて遠くへ行こうとした。
(……まさか)
 会いたいと思いすぎて、都合のいいように想像を働かせすぎている。
 きっとただの風とか、虫とか、そんなところだろう。
 たしかめるのは、小さな音が耳についたら眠れないからだ。そう自分に言い訳をして、真実はようやく見つけたペンライトを取り出すとそれを点灯し、再び窓辺に戻った。
 窓の鍵を開け、極力音を殺しながら窓を開ける。
 震えそうな手でペンライトを掲げ、窓のすぐそばにある樹を照らした。
「どうした?」
 そばに来た嘉彦が、小声で訊ねてくる。
 ライトに映し出されたものは、ただ小さく風に揺れる常緑樹だけだった。
「風のせいみたいだ」
「そうかな。何か、寝る前からずっと音がしてる気がするんだけど」
 嘉彦がそう喰いさがる。真実からペンライトを奪って、今度は自分で外を照らしてみた。
 小さな明かりが宵闇をぬって、樹の幹や地面を小さく照らした。
「あ、人が」
 小声で囁くように言った嘉彦の声に、真実は一瞬体を竦ませ、それからすぐに嘉彦の照らし出した場所を目で追った。
 常緑樹の上、真実たちのいる部屋へとまるで手を伸ばすように生えた大振りの枝の上。
「……裕司」
 姿を見て、呟くなり、真実はその場にぺったりと座り込んでしまった。
 体中が震えている。
 真実の声を聞いた嘉彦が急に笑い出して、きっと夜中でなかったら大声で笑い転げていただろうというくらいの勢いで、腹を抱えて全身を揺らしていた。
「す……すげぇ、あれが『裕司』なんだ」
 裕司は、慎重に枝を伝って窓の側まで進むと、立ち上がれない真実に変わって差し出された嘉彦の手に掴まり、部屋の中まで転がり込んできた。
「何腰抜かしてんだよ」
 着地に失敗して文字どおり転がり込んできた裕司は、どうにか身を起こしながら泣いている真実に言った。
 一年ぶりに会うのに、相変わらずぶっきらぼうで突慳貪な口調だと、真実は可笑しくなった。
 こんなふうに会いに来ておきながら、こんな態度で。
 ちっとも変わらずに。
「……どうして……どうやって……」
「調べた。今は、友達にアリバイ作り協力してもらって。母さんたちにはばれないはずだから安心しろ」
「友達……」
 呆然と、真実は口の中で反復した。
 高校に入ってからの裕司に、友達らしい友達がいないのは真実ももちろん知っていた。
 一年の間に、裕司は変わったのだろうか。
 そう思ったら一瞬胸の焼けるような心地がしたが、それらすべてを含めて裕司が目の前にいる事実を見てそんな想いはあっという間に四散した。
「相沢センパイ」
 呼ばれて、真実と裕司が同時に呼んだ嘉彦の方を振り返った。思わず、嘉彦が吹き出す。
「マコトの方。まあ、どっちでもいいや。俺ら外行ってるから、ごゆっくり」
 暗闇に慣れた目をよく凝らしてみると、嘉彦の隣には眠そうな顔の池内がいた。どうやら嘉彦に起こされたか、裕司が入ってくる気配で目が覚めてしまったらしい。
「ごめん――ありがとう」
 嘉彦は礼を言った真実にひらひら片手を振って、池内の背を押すように部屋を出ていった。
 ドアを閉める寸前の嘉彦と真実の目が合う。
 嘉彦が、真実がこれまで見たことのないような優しい微笑を作り、真実もそれに応えた。
 静かにドアが閉まって、部屋には裕司と真実だけが残される。
「……葉書。どうしちゃったのかと思った」
 ぽつりと、最初に口を開いたのは真実の方だった。
「おまえの居場所わかってから、少しずつ計画練ったんだ。あの葉書作ったの、あの人。松下沙織」
「松下が?」
 懐かしい名前を聞いて、真実は思わず息を吐いた。
 そういえば彼女は将来デザイン系の進路を歩みたいのだと言っていた。
「居場所調べるの手伝ってくれたのが、塚本。一緒に学校と親騙すようなことやったけど、後悔してない」
「……そっか。塚本もか」
 やはり溜息のような真実の呟きに、裕司が頷いた。
「アリバイ作ってくれてるのがクラスの奴で、ここに来るまでの切符手配してくれたのが同じ選択コースの奴。全員、口が堅くて信用できる」
「アリバイ……てさ、友達の家に泊まるからって言ってきたのか? 母さんたちに」
「そう。勉強会するからって言ったら、手みやげまで持たせてくれた」
 ちょっと悪戯っぽく笑った裕司の表情に、真実は目も心も奪われた。
 もう触れないことに我慢ができず、座ったまま、裕司の首へと両腕を伸ばす。
 裕司がそれを受け止め、きつく真実の体を抱いた。
「おまえ、痩せたな」
 真実の髪に顔を埋めながら裕司が呟き、感触を確かめるように掌であちこちに触れている。
「ここの食事、不味いし。裕司は健康そうになった。……すごい、変わった」
「別に。元々の部分なんてそんなに変わらない」
「……ん、そっか」
 体中で裕司の感触を確かめたくて、真実も力を籠めて裕司の体を抱いた。唇に当たる場所すべてにキスを落とす。
「長くはいられないんだ。二日家を空けたらさすがに怪しまれる」
「わかってる」
 相沢の家からここまで、優に半日以上はかかる。明日の夕方までに家に辿り着かなければ、母親に裕司の不在の理由を疑われるだろう。元々が過保護な人なのだ。
「……浅ましいって、笑ってもいいけど」
 少しの時間も惜しかった。話したいことはたくさんある。でも、触れたい欲望も抑えられない。真実が泣きそうな顔で裕司を見上げると、すぐに裕司が唇を合わせてきた。少し乱暴なほど、貪るように唇を吸い、噛んで、舌を絡め合う。
 一年分の時間を取り戻すように、止まらない接吻けを続けた。
「……笑えない」
 キスの合間に裕司が答え、真実の背を抱いて立ち上がらせる。真実が指さしたそのベッドに抱き合ったまま移動して、もどかしく服を脱いで脱がせ合う。
「動物みたいだ」
 恥ずかしいような、きまりわるい心地で呟く真実の額や頬に、裕司が軽く接吻けを落とし。
「動物だよ。真実とやる夢ばっかりみてた」
 真実を仰向けに寝かせ、足を開かせながら裕司が冗談ではない口調で言った。
「……夢じゃないよな、これ」
「夢でたまるか。何ヵ月も綿密な計画練って、ようやくここまでこぎつけたんだ」
「……ん……」
 裕司に中心を触れられ、体を震わせながら、真実も必死に手を伸ばして裕司に触れる。
「……会いたくて死ぬかと思った」
 何度もキスを繰り返し、真実の体中に触れながら裕司が言った。簡単に吐息を乱しながら真実も頷く。
 少しでも離れていたくない。でも、もっと相手の姿をみつめていたい。
 多分お互いそう思って、唇を合わせては離れて瞳を覗き込み、少しでも相手の感触を味わおうと、夢中で触れ合った。

 本当に動物みたいだなと思って、荒く息をつきながら、真実は笑った。
(最短記録かな)
 同じ家で暮らしていた頃、両親の目を盗んで何度もこんな行為に耽った。暴力に等しいやり方で、裕司の衝動のままに体を曝かれたこともある。床に突き飛ばされて服を剥ぎ取られて犯されるまであっという間で、惨めさに泣きじゃくったこともあるが――その時よりも、この夜の方がよっぽど体を繋ぐまでの時間が短かった。
 まだ、真実の体の中には弟の熱がある。裕司は達する寸前に身を引こうとしたのに、真実は相手の体に脚を絡めてそれを阻んだ。後が大変なのは経験上知っていたが、一瞬でも離れたくなくて必死だった。
 裕司も真実の上で呼吸を乱している。すべての体重を遠慮なく預けられ、真実にはその重さと息苦しさが心地好くて気が遠くなりそうだ。
「何、笑ってんの」
 たった一晩の逢瀬のために長い時間をかけて、はるばるこんな部屋までやってきたくせに、裕司の口調はぶっきらぼうだ。それが妙に嬉しくて、真実はかすかに汗に濡れた弟の髪を優しく撫でた。
「話したいことがたくさんあったのに、全部吹き飛んだなと思って」
「……聞くけど?」
 裕司の返事に、真実は首を振った。
「全部並べてたら終わらないよ。最初にここに来た日のことから、今日まで、全部だから。俺のことも……裕司がどうしてたのかなってことも」
「別に今までと何も変わらない」
 相変わらず、裕司の口調は素っ気ない。
「ただ、真実がいないってだけ」
 なのにその声音から裕司の餓えが伝わってきて、真実は苦しくなった。
 裕司の心情を想像する必要はない。きっと真実と同じくらい、時々は気が変になるんじゃないかと思うくらい、寂しかった「だけ」。
(どれだけ言葉を連ねたって足りるわけがない)
 捥ぎ取られた時間が恨めしい。今をこらえれば、ずっと弟と一緒にいられる日が来るからと自分に言い聞かせて過ごしてきたけれど、目の前にその姿があって、触れ合って、繋がってしまえば、再び離れる時の苦痛に耐えられるのか、怖くなった。
 だから、もっと、もう少しだけでも。
「裕司、もういっかい……」
「……ん」
 弟のすべてを体に刻みたい。言葉なんて今は意味がないと思った。どうせ気持ちには及ばない。熱情にも、欲望にも足りない。
「っ、裕司……」
 真実の中で、ほとんど固さを失っていなかった弟のものが、ゆっくりと動き出す。
 裕司も、ほんの少しだけでも真実の感触を忘れたくないという仕種で触れてくる。
(朝なんて来なければいいのに)
 今は互いに与え合う快楽と愛しさ以外、何も感じたくない。
 真実は進んで思考を手放して、ただ掠れた声で弟の名前を何度も呼び、相手の呼ぶ自分の名前を何度も聞きながら、熱に溺れた。
 誰にも言えない夜を、ふたりきりでずっと過ごした。

おうちのひみつ

Posted by eleki